退社にあたって

二年ぶり、二回目の転職をすることにした。前回の転職については、

メインフレーム5年の経験しかない金融系SEがiOSエンジニアとして転職した話

で書いた。ただこの記事は今読むと、ごちゃごちゃしてるなと思う。転職の方法論と、転職活動の過程と、そのときの自分の感情と、問題提起と勉強方法とアドバイスとがごちゃごちゃしている。

この記事はお気持ちについてだけ書くことにしようと思う。

転職した理由

  • 開発の質と量を改善したい
  • より興味のある業界で働きたい
  • 待遇を改善したい
  • の三つが理由。面接でも同じことを言った。

    この2年間をふりかえる

    なんだかんだで、ずっと怖かったということに気づいた。iOSエンジニアとして一人前になった感じは、転職して半年ぐらいでようやく出てきた。じゃあそれ以降は楽だったかというと、そんなこともなく、ずっと背伸びしている感じがあった。背伸びしていた爪先が、だんだん低くなっていって、今はだいぶ地面に踵をつけて仕事をしている感じ。すこし無理をしなければいけなかったのは仕方がない。そういう道を選んだので、望むところだった。ずっと上手くイメージだけを抱いて、実際それはその通りになった。できそう、できる、できた、みたいな感じ。

    ただその一方で、不安を押し殺していた部分は確実にあったようだ。一回目の転職で、年収が100万円ほど下がった。俺自身は、絶対に将来取り返せるし、取り返せなかったとしてもやりたいことやってたら後悔しない、と自分を納得させていた。ただ「もしかしたら一生このまま上がり目がないまま終わるのか?」と思うこともあった。特にフルリモートになってからは、社会から切り離されている感じがあって、このまま燻って終わるんだろうか、といくどか思った。

    それでもダークサイドに落ちなかったのは、自分の確かな成長を自分が感じられていた、それだけだと思う。成長実感によって、今やってることは感覚的に間違っていないだろう、と思えた。もしここでコケていたら、と想像すると、すこしゾッとする。一年たっても思ったようにiOS開発ができなくて、延々チームのお荷物になってる状態が続いていたら、たぶんどこかで折れていたと思う。

    広さと深さ

    2019年の転職のときのイメージする将来像は、「iOS/Android/Webフロント/Webバックを全部広く浅く見れるフルスタックエンジニア」という感じでした。これは俺自身が元々すごいソフトウェアエンジニアのイメージ像として、「一人でプロダクト全体を見れる人」というものがあったからだ。iOS開発を極めたら、別のジャンルをまた数年やって、三十後半ぐらいには全体が見れるようになるかというイメージだった。

    で、現実的にこれがどうなのかというと、正直厳しいというのがわかった。もちろん2〜3年でジャンルを越境して、幅広く開発経験を積んだ人になることはできる。もちろんそれでもすごい人ではある。ただ実際問題、深さが足りないと思う。iOS開発を2年やった感覚だと、「とりあえず一通りの機能実装はできるけれど、設計やベストプラクティスなどはまだ経験不足。知らないことがいっぱいある」というのが正直なところだ。恐らくは他のジャンルでも似たようなものではないだろうか。

    個人的な意見では、専門知識を習得する期間は、5年が一つの目安になる。5年ぐらいで新規の情報と既知の情報の比率が逆転して、知ってることの方が多くなっていく。一般的にはその辺で学びが鈍化する。前職の転職タイミングがそんな感じだったし、大学時代の経済学に対する感覚もそうだった。3年で一人前になって、5年でマンネリ化しはじめる、というのは、あらゆるジャンルに通用する気がする。

    達人とか専門家と呼ばれる領域を目指したいなら、この5年でマンネリ化してくる壁を超えないといけない。これは辛そうだ、と思う。俺はこの戦いをやったことがない。

    今仕事について思っているのは、とにかくiOS開発を深める、ということだ。5年の壁を意識しつつ、深めていく。その一方で、個人開発でNext.jsを触っているので、これを通して、すこしずつWeb技術も広げていく。基本深める優先で、たまにすこし広げる。こんなバランスがいいんじゃないでしょうか。

    技術的な課題感

    これはもう設計とテスト。2019年末からずっと同じ課題感を持ち続けて、解消してない。有休消化期間に取り組む。

    時間とタスク

    色んなタスク管理法を試してみた。2019年の転職当初は、ポモドーロ・テクニックなんかも使っていた。けど合ってないのでやめた。今やってるタスク管理法は、「重要なタスクが発生したら早めに潰す」というぐらいだ。あと「どうでもいいタスクはタスクにしない」というのもやってる。やってもやらなくても変わらないようなことは基本的にやらない。基本的にはこれで上手いこといってる。

    問題は「難易度の高いタスク」の扱いだ。タスクというのは、通常取り組めば終わる前提でタスクと呼ばれるけれど、実際は「できるかわからないタスク」というのが存在する。「書類を書いて提出する」とか「英語の勉強をする」とか、この手のタスクなら時間さえかければ終わる。ただ「新曲を書く」とか、「Androidアプリをつくる」とか、そういうタスクはどうだろうか?

    「難易度の高いタスク」は、クリエイティブであったり、深い専門知識が必要だったりする。俺の「重要なタスクが発生したら早めに潰す」という方針によって、瞬殺できるタスクは消えていって、この「難易度の高いタスク」だけが残っていった。これが結構キツい。タスクボードの中に延々と残り続けることになるし、自己肯定感もモリモリ下がっていく。かといってテキトーにやって終わらせたことにするのでは意味がない。

    タスク管理本なんかの教えなら、タスクをブレイクダウンしていけ、という話になるんだろうけど、むしろ考えを変えることにした。タスク管理がどうという話ではなくて、そもそも本質的な難しさにぶち当たっているのだと思うことにした。特にクリエイティブな作業というのは、本質的に難しさがある。時間に比例して成果があがる訳ではない作業だ。

    プログラミングなんかは、一週間悩んで成果が出なかった課題が、一年後見てみたら30分で解決するようなことがある。これはもう努力がどうとか、方法論がどうとかそういう話じゃないだろう。実力の問題だ。じゃあクリエイティブな仕事に時間は不要かというとそんなことはなくて、実際はより良い解決策のために学習する時間が膨大に必要で、そのための道筋は整備されていない。ネットで見た小話で、医者が10分の診療で多額の金額を請求してきて、「たった10分で?」と言ったら、「10分で原因を特定できる専門知識に対する報酬だ」と主張したものがあった。そういうことだろう。

    いい時間

    あと時間についてもう一つ、最近思ってること。

    勉強でも仕事でも執筆活動でもなんでもいいけど、その手の生産的な活動をするためには、単に時間があるだけじゃダメで、「いい時間」が必要だということに気づいた。どういうことかというと、同じ一時間でも、元気いっぱいの一時間と、高熱が出てフラフラの一時間とでは全然違うということだ。

    俺の場合、2021年入ってから色んな体調不良に見舞われた。また、深酒によって翌日の午前が重たくなることも多かった。睡眠も十分で、健康状態も問題ない状態を確保するのは、何をするにしても基本になると思った。子供の頃は当たり前だったけれど、だんだん自分で気をつけないと、気づくと「なんかパフォーマンス悪いな最近……」という状態になりがちだ。

    理想は子供に近い生活をするのがいいんだとは思う。栄養のある食事をして、体動かして、酒タバコはやらず、夜は早めに寝て。俺はそこまでストイックな人間ではないので、程々にするけれど、なるべく近づけたいと思っている。

    堕落について

    働き始めた頃と比べると、時間が自由に使えるようになった。特にリモートワークが始まると、裁量はもう無限大に近い。求められている成果さえ出していれば何も言われない環境になった。忙しいという言葉はそもそもあまり使わないようにしているが、今の忙しさはなんだか変な感じだ。自分で忙しくしようと思えばいくらでも忙しくなるし、極論一日何もしなくても何とかなる生活をしている。

    近いのは受験のときの感じかなと思う。勉強しようと思えば一日中勉強できるように、スケジュールが組まれていた。けどやる気が出ないときもあって、そういうときはゲームしたり、マンガ読んだりしていた気がする。Twitterでフリーランスエンジニア見ると、ずっとゲームやっちゃう人も観測しているので、堕落というのは結構怖い要素だなと思っている。

    個人的にはやる気出ないときというのは何らかのサインなので、スパッと気分転換した方がいいと思っちゃうタイプなので、別にサボることが悪いとも思っていない。ただ本当に怖い堕落は、生産的な活動を完全にやめてしまうことだろう。別にそれでも生きてはいけるだろう。最低限会社から要求されている成果物だけこなしていれば、生活できないことはない。けどそれだと自分の成長が止まってしまうことになる。状況によるだろうけど、どのみちジリ貧になると思う。

    何でもかんでもは書かなくなった

    二回目の転職は、一回目と比べるとチャレンジングなものではない。基本的には今やってるのと同じ仕事を、会社を変えてやる、という転職だ。なので、別に何も書かなくていいかなとも思ったのだけど、敢えて書くことにした。

    大学時代は本当に何でもかんでもブログのネタにして書いていたけれど、今は何でもかんでも書くということはなくなった。Webに公開もしてないし、ローカルで書いたりもしていない。これは人間としての変化かもしれない。昔は書いて記録する、ということに価値があると思っていた。生まれるのがもっと昔だったら、いい歴史家になっていただろう。どんな細かいことでも書いておけば、何かの役には立つだろう、と思っていた。むしろ書き漏らすことが怖かった。書き漏らして失われることが怖かった。

    一社目でWeb上の発信量が減ったのは、純粋に自由時間が少なかったからだけど、二社目にいるときは書ける時間はあった。優先順位が変わった、ということだろう。ブログ形式で文章を書くのは俺にとって結構簡単な作業で、字数だけだったら、一日で一万字ぐらい書けると思われる。ブログ執筆は、楽しいことでもある。頭の中でモヤモヤしていることを明文化すると、すっきりした感じがする。

    ただブログ執筆は、悲しいけれどムダな時間でもある。俺は勝手に書き散らしているだけだし、読み手もななめ読みして終わりだ。バズってアクセスがたくさんあっても、特に何があるわけでもない。別に書くこと自体が楽しいからいいけれど、作業時間としては数時間が消費されている。ギャンブルやゲームよりはだいぶいい趣味だとは思うが、本当のところ大差がない。そんな気持ちで、むしろあまり積極的に書かないようにしているところがある。書くんであればもっとちゃんとした文章を書いた方がいいし、文章じゃなくてコードを書いた方がいいとも思う。あとはそれに付随する技術記事なんかもいいだろう。

    全く書かないのもよくないし、書きすぎるのも良くない。何かあったときに長文を書くぐらいがちょうどいいいのだろう、と最近は思っている。

    行動に価値がある

    書かなくなった理由、もう一つあった。

    行動の伴わない言動に意味がない、と思うようになったからだ。

    晩年の三島由紀夫が陽明学に傾倒していたのが、昔はよくわからなかったけれど、最近はすこしだけわかるかもしれない(彼は知行合一の結果、クーデターを試みてしまったが……)。議論が悪いとは言わないけど、後から振り返ったときに価値が残るのは何らかの行動によるものだと思う。俺は、プレイヤーでありたい、と思って2019年に転職した。今まさにプレイヤーとして仕事しているけれど、日々行動しかしていない。もちろん思ったように結果が出ていないことの方が多いが、プレイヤーとして動けていることには満足している。打席でフルスイングした結果が三振なら、それが今の実力だと納得するしかない。打席に立っていない人間が、客席やネットで何か言っていても、それは聞く価値のない言動だろう。

    結果が一つ出た

    まとめに入る。

    2019年に小説とソフトウェアをこれからの柱にすると書いて、2年間そんな生活をした。小説では全然結果が出ていない(6作送って、一次通過なし)。ソフトウェアの方では、一ついい結果を出せた。すこし救われたような気持ちになった。これからまた継続してやっていく。

    (了)