諸宗教に通底する根本理念について

宗教学で書いたレポート

が、自分でもよく書けてると思うんで、公開します。

序論

特に現代の日本人にとって、宗教とは何か自分の生活とは縁遠いものであり、どこかうさんくさいもの、場合によっては恐ろしいものですらある。上智大学という、ただでさえ狭っくるしいキャンパスのかなりの面積をイグナチオ教会やその他宗教聖堂に費やしている、キリスト教系の大学に在学する中で、宗教という、僕にとって不可解なものを知ろうと思っていた。そういう中で「宗教学」の講義をとった。

宗教と言っても、非常に幅広いものがある。世界には様々な教義があり、また様々な神がいるものだ。しかし、何事にも根本理念、つまり核心があると、僕は考えている。たとえば文学の核心は何事かを文章によって表現することである。数学の核心は何事かを数式の厳密性によって分析することである。そういう核心を、宗教において見出そうとした。

そこで僕は、宗教の核心とは、「生きる苦しみに対して精神を守ること」であることを発見した。生きる苦しみとは何か。芥川龍之介「侏儒の言葉」に、

地獄

人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

という文言がある。この警句がいみじくも示すように、生きることは、実に多くの不確実性を伴い、したがって実に多くの苦痛を味わうこととなる。そういう中で、人が己が心の純粋性を保ちながら生活することが、尋常の手段で可能であろうかと考えた時、雷電がきらめくように、十字架や寺院の存在が立ち現れる。この世の大原則に、万人が無為徒食に甘んずる程の、富や食料はない、ということがある。(ちなみに共産主義最大の誤謬は、この原則の軽視にある)よって、平和的であるにせよ、暴力的であるにせよ、競争が起こる。その結果、勝敗が決まる。勝つ者は富み、栄え、幸福に包まれる。負ける者は窮し、衰え、不幸に陥る。勝者は敗者を見下し蔑む。敗者は、そんな勝者に、嫉妬や憎悪を禁じえない。

無論万人がそんなさもしい価値観で生きている訳ではあるまいが、そういう勝ち組と負け組という極めて単純化された構図で世界を俯瞰した場合、勝者も敗者も、いずれも精神を清浄に保つことはできなくなる。勝者は優越感と軽蔑で、敗者は憎悪と嫉妬で、精神をかき乱される。健全な精神は、到底保てない。そういった汚濁した感情と無縁でいることが、「精神を守る」ということの意味である。

昔と今の人生の苦しみを同一視はできない。現代と昔では、苦しみの性質が全く異なっている。昔の苦しみというのは、飢饉、疫病、災害という、現実的肉体的問題が、重く影響していた。現代では、農業技術の発達で、少なくとも先進国では、飢饉はほとんど起こらないし、医療の発達で大抵の病気が治り、災害もある程度まで防げる。ところが現代の人間の幸福は、技術の進歩ほどに増進していない。これは現代人が、発達した社会の中で、様々な精神的問題を抱えるようになったためである。社会の進歩は、皮肉にも、人生の苦しみをも進歩させた訳である。その辺の苦しみの質の違いも考慮しつつ、以下詳述していきたいと思う。このレポートは、宗教の本質が「生きる苦しみに対して精神を守ること」であることを、帰納的に論証することを目的とする。

本論

以下、扱う宗教は、

・キリスト教

・仏教

・イスラム教

・ゾロアスター教

・ヒンドゥー教

・神道

・ユダヤ教

・エホバの証人

・創価学会

・オウム真理教(現在はAleph。ここで教義を扱うのはAlephの方)

・幸福の科学

に限る。一応このレポート上では、

・世界宗教-キリスト教、仏教、イスラム教、ゾロアスター教

・民族宗教-ヒンドゥー教、神道、ユダヤ教

・新宗教-エホバの証人、創価学会、オウム真理教、幸福の科学

と分類するが、あくまで便宜上の区分であり、特に世界宗教と民族宗教の定義については議論の余地がある。

個別の宗教の分析に移る前に、世界宗教、民族宗教、新宗教の特徴について、少し論ずる。世界宗教というのは、広範囲にわたる、多数の人間による、共同幻想という性質がある。広く知れ渡ったが故に、教義には当初くみこまれなかった多様性や地域性が発生する。仏教は特にその傾向が顕著で、たとえば日本では、法華経だの日蓮教だの、元々の仏教が持っていない宗派が出来た。世界宗教の持つ開放性が、その宗教に知名度をもたらす。また長期間の信仰の結果、その宗教なりの伝統がうまれる。その結果、知名度の高さと伝統の確かさによって、世界宗教は保障されることになる。民族宗教は、特に地域性、民族性、伝統性が強い。民族宗教は、比較的、閉鎖的である。それによって、教義にはさほど混乱が生じない。また、民族宗教は、その民族に身体化している傾向が強い。教義の安定性と身体化は、民族宗教の大きな特徴といえる。この二つに対して、新宗教は、ほとんど何の基盤も持たない宗教である。新宗教のほとんどが、科学文明の急速な発達を背景としていて、前時代と大きく変容した社会で、今までの常識が通用しないことに戸惑い、苦悩する現代人の、必要から生じた宗教であるといえる。また、新宗教は、知名度も低く、伝統性も弱い。そのため、権力への執着が極めて強い。独特の宗教世界では、最強の存在が、現実世界では理解しがたい異物としてしか扱われない現実を、選挙の落選でまざまざと思い知らされた時、新宗教は破壊行動に出ることが多い。

キリスト教

キリスト教は、そもそもユダヤ教批判からうまれた宗教である。十字架刑にかけられたイエスに対する、弟子達の復活信仰に由来する。聖典は「旧約聖書」「新約聖書」である。宗教施設に、教会や聖堂や修道院がある。世界に21億人の信徒がいる、現在世界最大規模の宗教である。その規模と歴史のために、分派を考えると際限がないので、ここではイエスの思想を考える。

イエスの思想は、その終末思想と律法観にもっともよくあらわれている。マルコによる福音書によれば、イエスは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」ということばをもってその教えを宣べ伝え始めた。イエスが当時のユダヤ教の終末思想の影響のもとにあったことは否定できない。ただ、イエスの説く神の国においては、神の無限の愛の前にすべての人は平等であった。むしろ飢えかわきを覚えて、神の愛を喜んで受けいれる者は、この世の富める者、満ち足りた者よりも、神の国に近いとされた。イエスの宣教とともに終末の時は始まり、神の支配に服する人間の人格的応答の中で、神の国はすでに人びとのところに到来しているのである。イエスにとって悔い改めるとは、ひたすらな思いをもって心を神に向けかえるということであり、このような神の国(支配)の到来を告げることは、よろこびの音信(福音)を伝えることであった。

このようなイエスの神の国の宣教は、人びとに神の意志への徹底的な服従をもとめるものであった。イエスは、神の意志がただ神への愛と隣人への愛の一点に集約されるという主張によって、当時のユダヤ教の律法学者の教え方とするどく対立した。パリサイ派の人びとが律法の規定を神の意志のあらわれとして尊重し、形式的にその一字一句を守ることに民族的、宗教的使命を見出して努力していることに対して、イエスは、かれらの律法への熱心は、神がイスラエルの民に律法を与えた本来の精神から逸脱するものであると批判した。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコによる福音書二章七節)ということばは、そのようなイエスの律法観を端的にあらわしている。イエスにとっては、生ける神との出会いの中で、神と隣人とへの愛に生きることこそが、律法のすべてであったのである。

(以上「世界の諸宗教」167、168頁より)

後のキリスト教がどう教えたのかは知らないが、イエスの思想はユダヤ教的終末思想を元にしていたらしい。そもそもイエス自身が、出自が明らかではない母マリアと、ダビデ王の血をひくとはいえ大工のヨセフの子であったことから、恐らくは貧困層の人間であったろう。当時のパレスチナでは、ローマによる支配で、重税と階級社会により、下層民はどんなに努力しようと生活を改善できる希望がない社会だった。生まれながらに富める者と貧しい者がわかれ、その階級は固定的であった。下層民は、生活形態が不安定なので、ユダヤ教の律法もきちんと守れないため、宗教的救いさえ得ることができなかった。そういう社会の中で、下層民の苦しみを「救済」しようとするのがイエスの教えであった。神への愛、隣人への愛という、金も手間もかからない、その分純粋で精神的な手段によって。

イエスは、ユダヤ教的終末思想を、固定的でとことん下層民を虐げる現実の価値観を反転させてくれるものとして変換した。「神の国」では、人は貧富ではなく、愛によって価値が決まる。この論理から、キリスト教には、特有の平等思想が存在する。

キリスト教において、「生きる苦しみ」というのは、貧苦や病苦のことで、「精神を守る」というのは、「愛」という言葉に集約された、人心の純粋性を守るということである。

仏教

仏教もキリスト教同様、分派が山のようにあるので、ここでは開祖ガウタマ・シッダールタ(以下釈迦)の思想に基づくこととする。現在、世界の仏教徒は3億7600万人存在する。釈迦の思想は、以下のような非常に厭世観の強い、虚無主義的なものである。

その教えは、大体「四諦」・「八正道」という形にまとめられている。「四諦」とはくわしくは四聖諦といい、四つの聖なる真理の意味である。第一は「苦諦」で、この世における人間の生存は苦であるという真理である。第二は「集諦」で、その苦の原因は世の無常と人間の執着にあるという真理である。人間の欲望はいくら求めても真にみたされることはない。しかも、どこまでも求めずにはおれない。そのことが苦の原因であるという。第三は「滅諦」といって、無常の世を超え、執着をたつこと、それが悟りの世界、真の平安の世界であるとする。それではそこにいたるためにどうすべきか、その道についての真理が第四の「道諦」である。その道を八項目にまとめたものが「八正道」である。「正見」(人生を正しく見ること)「正思」(思考を正しくすること)「正語」(正しいことばを語ること)

「正業」(体の行いを正しくすること)「正命」(正しい生活)「正精進」(正しい努力)「正念」(正しい注意力)「正定」(正しい精神統一・瞑想)からなるが、ここで正しいというのは、極端におちいらず、中道をとることをいう。

中道を実践してわれわれは悟りの世界にいたる。それは「涅槃寂静」とよばれているが、「涅槃」とはサンスクリットのニルヴァーナの音写であって、「炎を吹き消すこと」また「炎が吹き消された状態」をいう。

(前と同書36,37頁)

元々釈迦は王族の出自で、裕福であった。僕の考えでは、キリスト教と仏教の教義がある種正反対なのは、このイエスと釈迦の貧富の差だと思っている。釈迦は、欲望こそが人の苦悩の原因である、と考えていた。愛を求めることでさえ、「渇愛」として、欲望の発露ととらえ、悪である、という釈迦の思想は、まるでキリスト教を全否定しているような趣さえある。しかし、釈迦も、現実が貧苦病苦に満ちて、王侯貴族等、少数の人間だけが楽をして生きている世の中を、否定的にとらえていることにはかわりない。「四苦八苦」、すなわち愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦という概念を作り、いかに現実が苦しみに満ちているかを説いた。釈迦の思想は、欲望さえ消せれば、「涅槃」に至れる。問題はいかにして煩悩を消すか、であるが、釈迦の教えに関する記録は甚だ不十分で、悟りを得るために、どのような手段を用いろと釈迦自身が説いたのかは、よくわからない。

とにかく、仏教のおいては、「生きる苦しみ」つまり「四苦八苦」は、煩悩より生まれると考えられる。煩悩を消すことで、悟りを得て、涅槃に到達する。そこで人は、真の幸福を得るのだ、ということである。仏教の「精神を守る」とは、もっと積極的に「静かな精神状態を得る」と言ってよい。

イスラム教

イスラム教徒は現在世界に15億人いる、キリスト教につぐ規模の世界宗教である。教祖はムハンマド(モハメットとも)である。イスラムという言葉は「服従する」という意味で、「ムスリム」とは神に服従する者の意である。イスラム教も歴史のある宗教で、分派も多いので、極力ムハンマドの思想をたどりたいが、ムハンマドの場合、「コーラン」がほぼ彼の言葉を、そのまま記録したものであるそうなので、「コーラン」の思想を援用してゆきたい。

(1)神

(前略)しかし、初期のものと思われるコーランの中でマホメットが特に強調したのは、限りなく慈悲深い神ということである。コーランの後半になって「我は唯一の神なり」という神の唯一性の教えが強調される。かれはキリスト教徒がイエスを神の子と信じる信仰を神の唯一性を破るものとして否定する。(中略)他の罪については神の許しが期待できても、神の唯一性を否定する罪に対してだけは絶対に許しがないといわれる。マホメットが強調するこの神の唯一性の信仰はタウヒードと呼ばれ、イスラム信仰の根本的な教義とされている。

(2)世界と人間

神はまた永遠の実在であり全能なる創造者である。神は六日で天地を創造した。その創造の業は現在まで絶え間なく続き、世界の存在と秩序とを支えている。神は人類の祖アダムを泥土から創造した。(中略)人間は各々その信仰と行為に応じて報いを受ける。

神と人間の間には、天使、精霊、ジン(イスラム教以前からアラビア半島で信じられていた一種の悪鬼)やサタンが介在する。

(3)終末

世界には終末がある。それは天変地異となってあらわれ、そこから来世(アーヒラ)が始まる。終末の時は誰にもわからない。それには何の前兆もなく突然到来する。終末においてすべての人間は死から復活し、神の前で審判を受ける。その結果「信仰し善行に励んだ」

者は天国に入れられ、不義をはたらいた者は地獄に落とされ永遠の苦しみを味わう。

(前と同書215,216頁)

また、コーランには、

神学的命題、礼拝、断食、巡礼、暦の守り方などについての規定

(前と同書214頁)

酒、豚肉、賭博の禁止、喜捨、聖戦の義務規定、その他、結婚、離婚、殺人、仇討、盗み、相続などに関する諸規定

(前と同書214頁)

教祖ムハンマドの出自は、キャラバン隊に属した商人である。神の啓示を受けてイスラム教に目覚めた後は、メッカの住人と対立し、対立抗争にあけくれた。そういう中東の人間らしい、情熱的な一生を過ごした開祖の教えなので、教義もキリスト教や仏教よりも悲観的なところが薄く、非常にエネルギッシュである。ただその教義はユダヤ教・キリスト教の影響が強く、特に終末の部分は、ほとんどユダヤ教・キリスト教と大差がない。ところが「神の唯一性」への姿勢は、大きく異なる。キリスト教で想定される神は、哀れみ深く、自分を信じる哀れな人間を救ってくれる優しい、慈父のようなものが想定されているが、イスラム教は、神は絶対不可侵の超越的存在であり、厳父のような、厳格な裁判官として想定される。

イスラム教最大の特徴は、規律遵守の姿勢である。イスラムの語義が、「服従する」であったのは前述の通りだが、イスラム教は事実、規律に服従することで、神への忠誠を示す宗教で、しかもその神が厳格であるとなると、イスラム教は、ある種のマゾヒズムに満ちている。

イスラム教では、あまり「生きる苦しみ」は強調されない。また「精神を守る」ことも強調されない。ただ淡々と規律があって、それに服従せよ、というのがイスラム教の教義である。イスラム教では、「生きる苦しみ」も「精神を守る」ことも共有されないで、イスラム教で共有されるのは、「精神を守る手段」だけなのである。マゾヒスティックな唯一神アラーへの服従によって、突然やってくる終末の際に救済されると説く。これが結果的に、「生きる苦しみに対して精神を守ること」になる。

当時の中東は戦争や暴行が多く、殺伐とした社会であったため、「生きる苦しみ」は中東民に当然のように共有されていたのかもしれない。

キリスト教と仏教では、かなりはっきり、「生きる苦しみ」は明示されていた。しかし他の大多数の宗教では、「生きる苦しみ」は必ずしも明示されていない。「生きる苦しみ」は、丹念に教義をたどっていけば、ぼんやりと浮き上がってくるものに過ぎない。示されていないから、存在しない、という訳ではない。ほとんどの宗教では、宗教の中に、深く内在化して、個々の信徒が抱えているものなのだ。

ゾロアスター教

ゾロアスター教は現在最小の世界宗教である。信者は世界に散在している。開祖はザラスシュトラであるが、謎の多い人物である。ザラシュトラが書いたとされる「ガーサー」という詩篇もあるらしい。

ザラシュトラが説いた最高神をアフラ・マズダーという。賢明なる神の意を持つアフラ・マズダーは、全知、完善で、真実と善良の生みの親であり、愛と福をもたらす、敬愛すべきものであり、恐れることはないものだ、と説明された。

ゾロアスター教の教義は、以下の通りである。

「ザルトシュティー・ディーン」すなわちゾロアスターの教えに帰依する者は、アフラ・マズダーの教義に副う道理の生活を目指す。ザラシュトラは、儀礼によってアフラ・マズダーのもとに到達できるという考えを否定した。信仰は個人の内部にあると説いた。おのおのが、フマタ・フーフタ・フワルシュタ、すなわち、善思・善語・善行という単純な教義に則って生きることが求められる。

ゾロアスター教徒にとって最も重要な目標は「善思」をもつことである。それはアフラ・マズダーの最高の属性の一つ、ウォフ・マナ、すなわち、「良心」である。ゾロアスター教の良心をもてば、人は正しい言動を行い、善良な人生を送る。そして、世界は幸福に満ちる。

ゾロアスター教は、幸福指向の楽観的な宗教である。悲観や絶望は罪とされる。それは邪悪への屈服を意味する。ゾロアスター教徒は生活を愛し、人生の喜びを享受するように教えられる。懸命に働き、出世し、結婚し、家族を養い、社会の一員として活躍するように勧められる。祭りなどの社会生活を楽しむことは、困難にあたって相互扶助が義務であると同じく、哲理の一つだと信じられている。病気、貧困、無知といった社会の邪悪と戦うとき、完璧な世界の創造に向かって、アフラ・マズダーとともに尽力しているのだとゾロアスター教徒は信じる。節制や禁欲のような潔斎の難行は行わない。ゾロアスター教では、世間から身を引くことは罪業と見なされる。ゾロアスター教徒は、まったく俗世に生き、現世の素晴らしい事柄をすべて享受するのである。

(「ゾロアスター教」16、17頁)

この楽観的な宗教では、当然「生きる苦しみ」などというのは明示されていない。「精神を守る」手段が、

・心根の善良を保つこと

・この世の喜びを享受すること

である。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教は、インドに侵入したアーリア人の持っていた宗教と、インドの原住民の宗教が融合してうまれたのが母体となっている。よって開祖となる人物がいない。現在でインド国内の主流となっている宗教である。

ヒンドゥー教は、後に仏教、ジャイナ教、シク教の教義を接収し、更に後にイスラム教の教義も含むようになる。ここでは、他宗教の影響を受ける前のヒンドゥー教の教義を考えたい。

ヒンドゥー教の特徴は、多神教であることと、身分制が存在することである。現在のカースト制のもとになった、ヴァルナという身分制度は、

バラモン(司祭者)

クシャトリヤ(王侯・武士)

ヴァイシャ(農牧者)

シュードラ(非征服民、奴隷)

の順で尊卑が規定されている。

ヒンドゥー教の教典は、ヴェーダ文献である。ヴェーダの内容は、四種類にわかれていて、第一が神々への賛歌、第二が祭詞、第三に犠牲が行われる際の歌、第四に祈祷や呪詛に関する句が収められている。また、マヌ法典にも重要な教義が含まれている。マヌ法典の中にヴェーダの規定も詳述されている。人は最初にシュードラとして生まれ、輪廻を繰り返して、徐々に身分を上昇させてゆく。シュードラの人生は、上層階級に仕える義務を持つとされている。

ヒンドゥー教は身分階層によって、「精神を守る」ことを実行する。この点で、上記三つの世界宗教と対立している。世界宗教では、神仏の前に、人は平等であった。しかしヒンドゥー教では、神が人間にそれぞれ別の役割、別の身分を与えていると規定されている。

神道

神道は日本固有の宗教である。しかし大半の日本人の感情において、神道がいわゆる宗教であると感じることは少ない。何となく神がいるような感じのする神社に行って、正月は寒い中わざわざ参拝するのである。神道は日本人にほとんど習慣化してしまっている。

元々神道はアニミズムに起因する宗教で、自然神から、英雄偉人を死後神格化する人間神、あるいは祖先神まで、八百万の神といって、実にたくさんの神がいる多神教である。

そもそも神道が誕生したのは、人間がもっと原始的であった頃で、一所懸命に働く農夫達の努力が、一夜の嵐で台無しになったり、屈強な漁師達が、高い波に飲み込まれて、海のもくずとなったりした時代であった。そういう理不尽な自然のもたらす「生きる苦しみ」を、どうすることもできない自分の無力さを肯定するために、自然を神と崇めることで、「精神を守る」ことを達成したのである。

現在の神道は、もはや宗教としての役割をほとんど喪失していて、習慣・伝統として現代の日本人の中に受け継がれている。

ユダヤ教

ユダヤ教は、ユダヤ人の持つ民族宗教である。「旧約聖書」(ただし旧約、新約の概念はキリスト教のもので、ユダヤ教では「旧約聖書」こそ「聖書」なのである)と「タルムード」である。

ユダヤ教の教義の最大の特徴は、唯一神の存在が、けして自分たちと別次元に、俗と聖と対立して存在するのではなく、俗世界が最善の世界となるように導くために存在すると考えられていることである。そのために、ユダヤ教徒は様々な律法に服従する。律法で重視されるのは、安息日と割礼である。やがてメシアが到来し、ユダヤ教徒を救済すると信じられた。

ユダヤ人にとって「生きる苦しみ」とは、当然流浪の民として、様々な迫害にあい、略奪・征服を受けたことであった。ユダヤ教の、「ユダヤ人は律法の民である」「神と契約を結んだ民である」という選民思想が、流浪の中で苦しむユダヤ人の民族的自尊心を支えた。

エホバの証人

エホバの証人は、1884年にチャールズ・テイズ・ラッセルにより創始された聖書研究会を母体とする、新宗教である。公式サイトによれば、現在230以上の国や地域に約600万人の信者を持つそうである。エホバとは、全能の神、宇宙の創造主の意で、証人というのは聖書中のイエスの言葉に由来する。以下、概要。

【概要】アメリカのペンシルバニア州アレゲーニーに生まれたラッセル(一八五二~一九一六)は、長老派教会の信仰の中で育つが、やがて、組合派教会に関心をもつようになる。一八歳の頃聖書研究のグループを作る。一八七六年一月に、N・H・バーバーの編集する「朝の先ぶれ」という宗教雑誌を読んで感激し、彼の教えを広め、伝道者として活動する決意をする。やがてバーバーとは意見の違いが生じ、独自に運動を再開する。以後雑誌伝道に力を入れるようになり、一八七九年、「シオンものみの党およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence)を創刊。東部を中心に、信奉者が増える。雑誌やパンフレット類を各家に配布する聖書文書頒布者を組織し、一八八一年、ピッツバーグに「シオンのものみの塔冊子協会」(Zion's Watch Tower Tract Society)が組織される。協会は八四年に法人化され、ラッセルが初代会長となる。本部は、一八八九年にペンシルバニア州のアレゲーニー、一九〇九年にニューヨークに移される。アメリカ国内のほか、ヨーロッパ、アジアで数多くの講演を重ねたラッセルは、一九一六年一〇月、伝道旅行中にテキサス州で死去する。

翌年、ミズリー州生まれのラザフォード(一八六九~一九四二)が二代会長となる。その後、会の内部で分裂が生じたほか、他の教会や社会から強い批判や攻撃を受けるようになる。カナダ政府は、協会の活動を禁止し、アメリカ国内でも文書の一部が配布禁止されるなどする。これは、協会が出版した聖書研究所「終了した秘儀」(The Finished Mystery)の内容が、他宗派を攻撃する内容を含んでいたことや、会員の多くが、徴兵拒否を主張したことなどによる。さらに、第一次世界大戦中であったこともあり、一九一八年には、ラザフォードら八名が兵役に対する反抗をなした等の理由で逮捕され、有罪となる。八人は翌年無罪が証明され釈放される。

大戦後、一時迫害は収まる傾向を見せるが、一九三五年、ラザフォードが国旗に敬礼することを拒否する発言をし、この態度が会員の子供たちの間に広まり始めたことや、第二次大戦が始まり、徴兵拒否が問題となったことで、ふたたび迫害が強まる。信者が集まる施設である王国会館が襲撃されるなどの事件が相次ぐ。また徴兵拒否で多くの会員が連邦刑務所に拘置される。戦争の終了とともに、迫害も少なくなり、拘置されていた会員も釈放されていく。この間、一九四二年一月、ラザフォードが死去し、ペンシルバニア州生まれのノア(一九〇五~一九七七)が三代会長に就任。ノアは、伝道強化を図り、各種伝道者養成機関の充実を図る。現在の布教でも用いられている「目ざめよ!」が一九四六年に創刊される。こうした結果、会員も急増し、ラザフォード会長時代は数万人であったのが、一九五〇年代には五〇万人を越えるようになる、一九五〇年には、ニューヨークのヤンキースタジアムにおいて、八万余りの会員を集めて、国際大会を開催。また一九六〇年代以降は、海外会員の数も急激に増加する。一九七七年に、ノアが死去し、ケンタッキー州生まれのフランズ(一八九三~)が四代会長に就任している。

旧約聖書と新約聖書を厳密に解釈しようという立場が基本にある。また、終末思想と千年王国説(ミレナリズム)が顕著で、「終わりの日」が近いこと、その前に「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれる、神(エホバ)の王国の軍隊と悪魔の軍隊との戦いが起こると説かれる。戦いの後、「小さな群れ」に属する人々(十四万四〇〇〇人)は、霊的な存在として天に行き、「大群衆」に属する人々は、永遠の命が与えられ、「邪悪な人々」に属する人々は、滅ぼされるとされる。また会員は輸血拒否をすることで有名であるが、これは旧約聖書のレビ記一七章にある、「血を食べてはならない」とした教え、また新約聖書の使徒言行録(使徒行伝)一五章にある「血を避けるように」と命じた教えに基づいてのことである。

現在世界中に九八の支部と七万五〇〇〇以上の会衆(集会の単位)がある。

(「新宗教教団・人物事典」ものみの塔聖書冊子協会 304頁、305頁、306頁)

エホバの証人の教義は、

したがって,エホバの証人は,地が永久に存続すること,また,地を人の住む美しい所にするというエホバの目的と調和する人は,生きている人も死んだ人も,皆そこで永久に生きられるようになることを信じています。人は皆アダムとエバから不完全性を受け継いでおり,そのゆえに罪人です。

http://www.watchtower.org/j/jt/article_03.htm

とあるように、一見キリスト教と同じように見える。原罪の思想は、完全にキリスト教と同様である。しかし、エホバの証人には、キリスト教と次の二点で大きくことなる。

(1)「現代人の苦しみ」という観点

(2)「神の王国」という思想

まず(1)について。

1914年に起きると期待されたすべての事がその年に起きたわけではありませんが,それは確かに異邦人の時の終わり,特別の意味を持つ年となりました。多くの歴史家また解説者も,1914年が人類史の転換点となったことに同意しています。以下の引用文はそのことを示しています。

(中略)

「二つの世界大戦と冷戦があった1914年から1989年までの75年間を,歴史家たちは唯一の,明確に区別される時代,世界の大半が戦争を行なったり,戦争から復興したり,戦争の準備をしたりした時代だったという見方をますます強くしている」。―ニューヨーク・タイムズ紙(英語),1995年5月7日付。

「全世界は第一次世界大戦を契機にまさに爆発した。我々はいまだその理由を知らない。それ以前,人々は,ユートピアが見えてきたと考えていた。平和と繁栄とがあった。が,その時,すべてが爆発した。以来,我々はいわば仮死状態にある……今世紀だけでそれまでの全歴史を合わせた以上の人々が殺された」。―ウォーカー・パーシー博士,アメリカン・メディカル・ニューズ誌(英語),1977年11月21日号。

http://www.watchtower.org/j/jt/article_02.htm

聖書はこう述べています。「しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,裏切る者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい」。―テモテ第二 3:1-5

さて,こうしたことは以前の時代にも起きた,と言われる方があるかもしれません。しかし実際には,これほどの規模で起きたことは一度もありませんでした。歴史家や解説者たちが言うとおり,1914年以降の時代は類例のない時代です。(7ページをご覧ください。)災いはかつてなかったほどに大規模なものとなりました。さらに,終わりの時代に関してキリストの挙げたしるしの他の面として,次の事実も考慮しなければなりません。つまり,キリストの臨在と王国に関して今日ほど全地球的な規模でふれ告げられたことはかつてありません。また,エホバの証人ほど,伝道の業のゆえに厳しい迫害を受けた人たちはいません。ナチの強制収容所では幾百人もの証人たちが命を絶たれました。今日でもエホバの証人は幾つかの国や地域で禁令下に置かれており,証人たちに対して逮捕,投獄,拷問,殺害などの起きている国もあります。これは皆,イエスが挙げられたしるしの一部を成しています。

(http://www.watchtower.org/j/jt/article_05.htm

現代の戦争が、科学技術の進歩によって、過去に類を見ない大規模な死傷者を出していること。倫理は退廃し、信仰は蔑ろにされる。それがエホバの証人の規定する、「現代人の苦しみ」、すなわち「生きる苦しみ」である。

(2)について。

イエスが地上におられた時,弟子たちが近づいて来てこう尋ねました。「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。これに対してイエスは,多くの国の関係する戦争,飢きん,疫病,地震,不法の増加,宗教上の偽教師が多くの人を惑わすこと,イエスの真の追随者が憎しみを受け迫害されること,多くの人の義に対する愛が冷えることを予告されました。これらの事が起こり始めるなら,それはキリストが目に見えない仕方で臨在しておられることと,天の王国が近いことのしるしとなるのです。

(中略)

これらの聖句によると,キリストはご自分が王になる時が来るまで天で神の右に座しておられます。次いで,天で戦争が生じた結果サタンは地に落とされ,地上では災いが生じます。キリストは敵のただ中で支配を行ないます。その後「大患難」によって悪の完全な終わりが到来します。その「大患難」はハルマゲドンの戦争をもって完結し,その後にキリストの平和な千年統治が続きます。―マタイ 24:21,33,34。啓示 16:14-16

(http://www.watchtower.org/j/jt/article_04.htm

(1)で述べた「現代人の苦しみ」は、「神の王国」(上の文章では「天の王国」や「キリストの平和な千年統治」と表現されている)が成立するための過程なのだ、という教えこそ、エホバの証人とキリスト教を区別する最大の相違点である。

ちなみに神の王国について詳述すると、「多くの人が教えられてきたような,心の中にあるものではありません。」(http://www.watchtower.org/j/20080101/article_02.htm)とあるように、エホバの証人では、実在のものと考えられている。そして、以下の特徴があげられている。

  • 神の王国は現実の政府であり,永久に存続します。
  • 神の王国は人間のすべての政府を終わらせます。
  • 神の王国は,戦争や病気や飢きんを,そして死をも取り除きます。
  • 神の王国の支配者は神によって選ばれます。
  • そのメシアは全人類に対して,ご自分が神の王国の支配者にふさわしい者であることを実証してきました。
  • 神の王国には,キリストの共同支配者が14万4,000人います。
  • 神の王国は,いま天で支配しており,地球全体の支配を開始する用意ができています。
  • http://www.watchtower.org/j/20080101/article_02.htm

    そして、エホバの証人は、キリスト教以上の聖書重視の姿勢をとる。聖書の中で、血が神聖なものとされているから、エホバの証人の信者(本来は、エホバの証人というのは信者の呼称でもあるのだが、ここでは誤解をうむのでエホバの証人の信者という呼称を用いる)輸血を拒む事件が、社会的非難をあびたことがあった。また布教活動に積極的な宗教で、信者による戸別訪問を行っている。私的な話になるが、僕の家にも「聖書を読みませんか」という二人一組が来て、何かキリスト教関連の信者なのかと思い、「聖書は冬休みにでも読みます」などと言って、とりあえずパンフレットだけもらって帰らせた後、よくよくパンフレットを見たらエホバの証人であった、ということがある。(後日、その人がまたやって来て、「聖書の講義をします」と言ってきたので、辟易した)

    まとめると、「倫理の退廃や戦争の激化」といった「生きる苦しみ」から、「神の王国」到来を待望し、それまで聖書を熟読し、その内容を厳しく守ることで、「精神を守る」のがエホバの証人である。

    創価学会

    創価学会は、1930年11月18日、牧口常三郎と戸田城聖が設立した創価教育学会を母体とする。日本が第二次世界大戦で国家統制が高まる中で創価教育学会は弾圧を受け、牧口は獄中で死亡する。終戦とともに出獄した戸田は会を再建し、創価教育学会の名を創価学会と改めた。1952年に、宗教法人法に基づき、創価学会は宗教法人として、正式に認められた。(以上はhttp://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/history.htmlの記述にもとづいている)

    以下、概要。

    【概要】日蓮正宗に入信した牧口常三郎と戸田城聖が、昭和五年(一九三〇)に東京で創価教育学会を設立したのが運動の始まり。小学校教員を中心に会員をつのり、一二年には、同学会の正式な発表会を行う。一六年には機関誌『価値創造』が創刊され、会員も次第に増える。一八年六月に、治安維持法違反及び不敬罪の疑いで、幹部の検挙が始まり、牧口と戸田も逮捕される。この弾圧により幹部のほとんどが転向し組織は壊滅状態になる。また牧口は一九年に獄中死する。終戦直前の二〇年七月に出獄した戸田は、戦後、折伏及び座談会を中心とする布教活動により組織の再興を図る。二一年に創価学会と改称。二四年には機関誌『大白蓮華』を、また二六年には機関紙『聖教新聞』を創刊。二六年にはまた、戸田の監修になる『折伏教典』が刊行され、会員の布教活動に際してのマニュアルとなる。二七年に法人設立の認証がなされ、宗教法人となる。二八年には、本部が西神田から、現在の信濃町に移される。翌年から全国地方折伏が開始され、その強引さが社会問題化していく。また「国立戒壇」の建立を目指した政治への進出も始まり、三〇年の統一地方選挙に立候補者を出す。三三年に戸田が死去した後、三五年五月に、池田大作が三代会長に就任。戸田の築いた基盤をもとにさらに組織の拡大を図り、同年教団としての正式な海外布教にも着手する。この年三〇〇万世帯達成が発表される。政治活動もしだいに組織だったものとなり、三九年には公明党が結成される。四〇年には、大石寺に巨大な正本堂の建立が計画され、四七年に完成する。昭和四四年暮れから翌年春にかけて、公明党とともに「言論出版妨害事件」を起こし、同年五月には公明党との分離と国立戒壇論の放棄を宣言する。五四年には、日蓮正宗との組織上のあつれきもあり、創価学会の第一期目標を達したという理由を掲げ池田は会長を辞任し、北條浩が四代会長となる。池田は名誉会長となる。北條は五六年に死去したため、現在秋谷栄之助が五代会長となっている。

    組織の安定化にともなって、教育・研究事業への関わり、さらに平和運動などの社会活動が盛んとなる。三七年には東洋哲学研究所が設立さえる。四三年には創価学園が開校、また四六年には創価大学を創設。平和運動は、五〇年前後から盛んとなり、反戦・反核展や反戦出版が各種なされている。文化活動も種々なされているが、四七年には富士宮市に富士美術館、五八年には八王子市に東京富士美術館を設立。海外布教の結果、南北アメリカをはじめ、アジアやヨーロッパ、アフリカにも拠点ができる。各国の組織は、ある程度独自の活動をするものが多い。国際的教団としての体裁を整えるべく、創価学会及び海外の姉妹組織を包括するSGI(創価学会インタナショナル)が結成され、五五年にロサンゼルスで第一回総会が開かれる。池田がその会長に就任。

    創価学会は、基本的には日蓮正宗の講的な性格をもって展開してきたが、従来の講概念ではとらえきれない面が多くあり、そのために日蓮正宗との間にさまざまな葛藤を余儀なくされた。また、そのときどきの社会状況に対応する布教法と組織法をとったこともあり、昭和二〇年代後半から四〇年代前半にかけて急速な教勢拡大を続け、現在新宗教のなかでは最大規模の球団となっている。

    創価学会は昭和五二年(一九七七)に日蓮正宗の教えとは相対的に区別された独自路線をとって、同宗と対立したが、この時は創価学会側が折れ、同宗と和解した。しかし、平成二年(一九九〇)には再び対立が激化し、同年一二月には日蓮正宗が宗規を変更し、池田大作総講頭、秋谷栄之助大講頭を事実上解任処分した。さらに翌三年一一月二八日、日蓮正宗は創価学会に破門を通告した。これに対応し、創価学会は日蓮直結を強調して日蓮正宗と対抗し、従来の活動のあり方を一部変更するにいたる。具体的には日蓮正宗による葬儀から友人葬にかえ、「創価ルネッサンス」運動を提唱。さらに、「平成の宗教改革」による宗教改革をも主張する

    元々教育団体が母体になっているせいで、時として宗教を説いているのか教育を施しているのか曖昧になることがあるのが、創価学会の特徴である。宗教の内容としては、一応日蓮宗に近いものとなっているが、これは元々創価教育学会が「教育のためには宗教理念があった方がよい」ということで、日蓮宗的教義を導入したが、葬式を寺院で行わない、偶像崇拝を行う等の、日蓮宗の教義や利益に反することが多かったため、破門されている。しかし、創価学会では日蓮上人を信奉し、法華経を重んずるなど、実際上の教義は日蓮宗との関わりが強い。教義は、以下の通りである。

    その目的は、仏法の実践を通して、一人一人が真の幸福境涯を確立するとともに、生命の尊厳を説く仏法哲理を根本に、恒久平和、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の発展に寄与することにあります。

    1930(昭和5)年の創立以来、日本では827万世帯、海外にも192ヵ国・地域の会員が日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と平和を願い、活動しています。

    「創価」とは価値創造を意味しています。その価値の中心である「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界の平和」の実現が、創価学会の根本の目標です。

    日蓮大聖人は「自分の幸福を願うならば、まず周囲の平和を祈るべきである」と述べ、個人の幸せは世界の平和・安穏なくしてはありえないと説いています。その意味で創価学会は、一人一人の幸せのみならず、真の平和・幸福社会の実現を目指しているのです。

    (http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/rules01.html

    要するに、教義は日蓮上人の崇拝と法華経の読経が中心となる。葬式は友人葬といい、僧侶などを介入させず、友人によって、香典のない葬儀を行う。その日蓮宗の変形のような教義に、上記の世界市民思想や平和思想が付与されたものが、大体創価学会の教義であるらしい。

    創価学会の場合、教義というよりは、その活動の方が、瞠目に値する。「827万世帯、海外にも192ヵ国・地域」に活動を広げた。そして、創価大学を筆頭に、

    創価中学校・高等学校

    関西創価中学校・高等学校

    東京創価小学校

    関西創価小学校

    札幌創価幼稚園

    アメリカ創価大学

    ブラジル創価学園

    ブラジル創価幼稚園

    香港創価幼稚園

    マレーシア創価幼稚園

    シンガポール創価幼稚園

    と、実に12個も学校を経営している。更に公明党を結党し、現在衆議院に21人、参議院にも21人、あわせて42人の議員を有している。

    調べていて感じたのは、創価学会は宗教法人でありながら、宗教団体というより教育団体あるいは政治団体としての性格の方が強いということである。したがってあまり宗教の定義をあてはめることが意味をなさないと思われる。日本で最も成功している新宗教だと思われる。(社会的成功、という意味で)

    オウム真理教(現Aleph)

    オウム真理教は、1984年に麻原彰晃(本名松本智津夫)によって設立された。警察庁によれば、

    「オウム真理教は、宗教法人を隠れ蓑にしながら「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」など数々の凶悪事件を引き起こしたテロ集団です。」(http://www.npa.go.jp/kouhousi/keibi/keibi4/it1.htm

    と定義されている。オウム真理教は、地下鉄サリン事件を筆頭に、数多くの凶悪事件を引き起こしたため、マスコミにも注目され、数多くの研究本が出ている。オウム真理教そのものは、ヨガや仏教思想をでたらめにとりいれて、危険な方法(暴行、監禁、薬物など)を用いて洗脳していたため、教義を研究する意味はさほど感じない。一応、オウム真理教の概要。

    【概要】麻原彰晃(本名・松本智津夫、昭和三〇年生)は熊本から上京した昭和五二年(一九七七)頃から宗教に関心を持ち、五六年にはクンダリニー覚醒を体験する。五九年に東京都渋谷区でヨーガの修行道場を始める。その後麻原は宗教体験を重ね、その内容を『超能力「秘密の開発法」』(六一年)として刊行した。同年渋谷区桜丘町のマンションでオウム神仙の会を発足した。発足当時の会員は一五名ほどであった。同年七月にはヒマラヤで最終解脱を果たしたとされる。その後次々に著作を刊行し、六二年からは月刊誌『マハーヤーナ』を出版する。同年二月にはダライラマと会見、七月にはオウム真理教と改称するなど活動を活発化していった。平成元年(一九八九)八月二十五日東京都から単立宗教法人として認証される。翌年には富士宮に富士山総本部道場を建設する、平成元年には山梨県上九一色村に、平成二年には熊本県波野村に土地を取得して進出した。

    平成元年ごろからオウム真理教の布教活動に対して社会的な批判がなされるようになる。宗教法人の認証を受けた二ヶ月後には『サンデー毎日』が教団の反社会性を取り上げて、七回にわたる告発キャンペーンを行った。教団の出家制度によって信者とその家族との連絡が困難になったり、出家の際の高額のお布施が問題とされた。同月にはオウム真理教被害者の会が結成され、一一月には被害者の会に関わっていた横浜市の坂本堤弁護士一家が失踪した。神奈川県警は麻原を事情聴取する。

    平成二年に行われた衆議院選挙に、真理党を母体として麻原彰晃をはじめ二五人が立候補したが、全員落選する。同年四月には地震を予言して一〇〇〇人を超す石垣島でのセミナーを¥行った。同年一〇月熊本、山梨県警などは、波野村の教団キャンプや富士山総本部など全国一四カ所を、国土利用計画法違反、公正証書原本不実記載・行使等の容疑で強制捜査を行う。

    この間海外布教も手がけ、平成四年にモスクワ支部開設、各地の大学で講演を行うなど、ロシアを拠点にした積極的な布教活動が展開される。

    教団が毒ガス攻撃を受けていると主張しはじめた六年六月に、松本サリン事件が発生、七月には上九一色村で異臭騒ぎが生じた。同年九月宮崎県の旅館経営者が拉致監禁を理由にオウム真理教を告訴、七年二月公証役場事務長仮谷清志が拉致された。

    七年三月二〇日東京で地下鉄サリン事件発生。二二日には公証役場事務長拉致監禁事件で三都府県の教団施設二五カ所の教団関係施設を一斉捜索する。教団幹部はこうした警察の動きに対して、連日のテレビの報道番組に出演し、自らの潔白と宗教弾圧を訴える。しかし、五月一六日、麻原彰晃は、山梨県上九一色村の施設でサリンを製造し東京の営団地下鉄でばらまき死傷者を出したとして、殺人、同未遂容疑で逮捕される。六月六日に東京地検は麻原をはじめ七人を殺人と殺人未遂の罪で東京地裁に起訴する。三〇日に東京地検と所轄庁の東京都は、著しく公共の福祉を害したとして、東京地裁にオウム真理教の解散命令を請求する。

    教団の教義と儀礼は、長くはない教団の歴史の中で、しだいに展開変化していった。教団の形成当初は、ヨーガの修行によるクンダリニー覚醒や空中浮揚の体験などの超能力の獲得とそのことによる病気の癒しなどの奇跡を体験することに活動の中心が置かれていた。その後、原始仏教にもとづく悟りの教えの明確化、解脱を目指す猛烈な修行が促進されていった。現世否定・現世隔離の教えと瞑想体験が結びつけられ、豊かな社会に飽きた若者にわかりやすい教えとなる。解脱と救済への道は麻原彰晃の行う秘儀によって促進されるという救済の信仰が生み出され、つぎつぎに新しいイニシエーションが作りだされる。

    クンダリニー成就者が続出する段階で、新たに階層的宇宙観や多様なヨーガの種類が定式化されていった。たんなるヨーガの世界観を踏み越えて、オカルティズムなどで用いられる用語が使用されるようになる。現象界の彼方にアストラル界やコーザル界があり、さらにコーザル界の上にマハーヤーナあるいはマハーニルヴァーナの領域があるとした。また平成元年以降は、人類の救済とともに終末論思想が全面に押し出されるようになり、ノストラダムスの予言やハルマゲドンが繰り返し強調される。さらには、教団に邪魔な人物や集団に対して死もしくは危害を加えることに関しても、タントラ・ヴァジュラヤーナの教えとして正当化するなど、伝統的な仏教やヒンドゥー教の教えからかけ離れていく。

    最盛期には、東京南青山の東京総本部、亀戸の新東京総本部、富士宮本部をはじめ全国に二〇を越える活動拠点を有し、海外にもニューヨーク、ボン、スリランカ、モスクワに支部を置いていた。国内信徒は約一万人、そのうち出家信者が一一〇〇人ほど、海外ではロシアに三万人の信者がいるといわれた。地下鉄サリン事件後、教勢は大幅に減少した。海外支部は、ロシア支部が政府から活動停止命令を受けるなど、活動は急速に低下する。

    修行にさまざまな薬物が用いられていた点、公益性を持つはずの宗教団体が毒ガスによる無差別大量殺人を計画し実施した点、大量の武器を所有・製作していた点、そしてこうした事件に少なからぬ数の高学歴の教団幹部が関わっていた点など、オウム真理教が起こした一連の事件は、係争中の裁判はもとより、宗教上の事件を越えて、現代の日本社会に大きな問題を突きつけることになった。

    (「新宗教教団・人物事典」オウム真理教 31頁、32頁、33頁、34頁)

    現在、オウム真理教の教義を一部改変して活動しているのが、Aleph(アレフ)という団体である。ここではAlephの教義を詳述する。(Alephから分離した、上祐史浩主導による「ひかりの輪」という団体もあるが、ここではAlephに限定する。「ひかりの輪」は、Alephに比べるとより仏教思想を濃くとりいれているようである)

    Alephは、3つの救済を目標とする。3つの救済とは、

    (1)病苦からの解放

    (2)この世の幸福

    (3)解脱・悟り

    の3つである。

    この3つそれぞれについて、詳述されている部分がある。

    (1)について。

    Alephでは、心身の病に対して、ヨーガ・仏教理論を取り入れたアプローチを行なっています。

    この世は無常であり、肉体もまた、無常です。

    心の働き、言葉、行為の蓄積によって、わたしたちの肉体は変化します。そして、三体質(粘液体質・胆汁体質・風体質)と五大エレメント(地元素・水元素・火元素・風元素・空元素)のバランスが崩れたときに病が生じる、とヨーガ・仏教では説かれています。

    現代医学では、最近でこそ心と身体との関係が注目されるようになってきましたが、基本的には対症療法、――つまり、薬物で症状を抑えたり、病に冒された臓器を切除する等の方法で、病を治します。

    しかし、それだけでは、病の根本的な原因に対するアプローチにはなりません。原因を取り除かない限り、また同じ症状が出てきてしまうこともあるでしょう。

    仏教・ヨーガのアプローチは、いかに病にかかりにくい体質を作るか、そして、病気は心の現れと言われていますから、いかに病にかからないような心の状態を作るか。さらに、病気になったときにはどのような心構えで対処するかということまで教えてくれます。

    また、クリヤ・ヨーガ(浄化法)、アーサナ、呼吸法(プラーナーヤーマ)、ムドラー等、さまざまな効果的な修行法も用意されています。

    病は、わたしたちの内面のコンディションを知るサインであるとも言えます。そのサインをしっかり受け止めて、原因となった生き方を変えていくならば、本当の意味で病から解放され、大きな恩恵を手にすることができるのです。

    (http://www.aleph.to/aleph/02-01.html

    (2)について。

    Alephが目指すもう一つの救済は、この世の幸福を得ていただくということです。

    「生きていくって、なんてつらいんだろう」

    ――職場や家庭での人間関係の悪化、仕事がうまくいかない、生活が苦しい、夢破れて挫折する、失恋、孤独……。「四苦八苦」という言葉があるように、この世には数多くの苦しみが存在しています。

    仏教では、煩悩があるがために、苦しみが生じると説きます。つまり、生き方のスタイルが間違っているために苦しみが生じているということです。

    真理を学んで功徳を積み、このスタイルを少しずつ変えることによって、苦悩から解放され、現実的な願望はかなうようになります(願望成就)。また、心は豊かになり、安らぎを得ることができるでしょう。

    Alephでは、現世を豊かに生き、幸福になる方法をお教えすることができます。

    (同上)

    (3)について。

    Alephが目指す最高の救済、それは、多くの方に「解脱・悟り」を得ていただくことです。

    解脱とは、すべての束縛や苦悩から解放され、絶対的な自由・幸福・歓喜を得た、魂の究極の境地のことです。

    今から約2500年前に登場したサキャ神賢(仏陀釈迦牟尼)は、自身が解脱・悟りを成し遂げただけでなく、後世の修行者のために、解脱に至るための具体的な方法を残しました。

    解脱・悟りは、過去の逸話や漠然とした夢物語などではありません。そこに至る道は、真理の教えを学び実践することによって、すべての人の頭上に広く開かれているのです。

    Alephには、厳しい修行によって解脱の境地を得た、数十名の成就者が存在しています。

    彼らが体験した解脱へのプロセスは、いにしえの聖者が残した経典に書かれていることと同じであり、Alephの教義に合致しています。

    Alephには、速やかに霊性を向上させるためのイニシエーション、そして、安全・最速に目的地に導いてくれる霊的指導者が存在しています。

    道を求めている方、絶対の幸福・自由・歓喜の境地に到達したい方のために、Alephでは、解脱・悟りのための具体的な修行法をご指導することができます。

    (同上)

    Alephは、オウム真理教が社会的制裁を受けて、ほとんど壊滅しかけた中、出所した信者や逮捕を免れた信者が結託して、結成された教団なので、非常に教義は洗練されていて、しっかりつくられている。「生きる苦しみ」は、「職場や家庭での人間関係の悪化、仕事がうまくいかない、生活が苦しい、夢破れて挫折する、失恋、孤独……。「四苦八苦」という言葉があるように、この世には数多くの苦しみが存在しています」という風に、きっちり明示されている。「精神を守る」方法が、解脱・悟りを得ることを目的とした修行なのである。まぁただ、修行の方法はオウム時代の名残で、非常にうさんくさい内容となっている。

    幸福の科学

    幸福の科学は、大川隆法(りゅうほう)によって1986年に創設された宗教団体である。

    2009年の衆議院選挙に、幸福実現党として多数の候補者を擁立したが、全員落選したことで有名になった宗教である。(ちなみに、オウム真理教も真理党を立党し、選挙に臨んで、全員落選した過去を持っている。現在、日本の選挙で成功した宗教団体は、創価学会のみである)以下、概要。

    【概要】大川隆法(本名・中川隆)は東京大学在学中から、GLAの教祖、高橋信次の著作に触れるなど、宗教にひかれていたが、法学部卒業後、大手総合商社、トーメンに入社し、ビジネスマンとしての歩みを始める。入社直前の昭和五六年(一九八一)三月、自室で突然、目に見えないものの気配を感じ、続いて鉛筆をもつ手が動き始め、「イイシラセ、イイシラセ」とカードに書き始める。これは日蓮の弟子の六僧老の一人、日興の霊による自動書記だったという。以後、商社マンとしての仕事を続ける一方、日蓮、高橋信次、イエス・キリスト、釈尊などの霊言を語るという体験をする。そして、大川自身はエル・カンターレであり、再誕の仏陀であるという自覚をもつに至る。霊権集数冊を父善川三朗(本名・中川忠義)の名で刊行した後、六一年七月、トーメンを退社し、宗教活動に専念する。六二年三月には初の講演会を開き、四月から月刊誌を刊行し始める。以後、急速に教勢を伸ばすが、とりわけ平成二年(一九九〇)から三年にかけて「ミラクル的」成長をとげたとし、三年七月には、信徒数、一五〇万人を超えたとした。その七月七日に東京ドームで「御生誕祭」を行い、「エル・カンターレ宣言をし、大乗の仏陀としての使命を明らかに」した(『新・太陽の法』)。信徒は主宰、大川隆法の著作を読むなどして真理を学び、「愛・知・反省・発展」の「四正道」を実践し、多次元的な霊界におけるより高い次元へと上昇するとともに、他者をも幸福にしていくことを目指す。三年秋、講談社批判の声を上げ、マスコミ批判の行動をはじめたが、逆にマスコミからの批判も浴びる。以後も政治や経済に、あるいは脳死問題に関心を示したり、他宗教を批判するなどして、社会への公的な発言に力を入れている。なお関連の営利法人として、「幸福の科学出版株式会社」がある。

    (「新宗教教団・人物事典」 宗教法人幸福の科学 100頁、101頁より)

    幸福の科学の特徴は、宗教にありがちな科学文明への批判的態度をとらないこと、科学知を否定しないことである。

    この百年で、科学文明は大きく進歩しました。しかし、そのなかで私たち人類は、最も大切なものを置き忘れてしまってはいないでしょうか。仏や神への尊崇の念いを忘れ、自らの本質が霊的な存在であることを忘れてしまった結果、多くの人々が、心の安らぎや豊かさなど、本当の幸福を見失っているのかもしれません。

    幸福の科学は、現代の科学文明、知識社会を否定することなく、その中に生きる現代人、さらに未来の人々をも救う、新たな宗教として生まれました。一人ひとりが、この世とあの世を貫く本当の幸福を目指しながら、時代の向かうべき方向として、学問や科学の進歩と霊的思想が両立する社会を創ることを目指している宗教です。

    正しい信仰のもと、一人ひとりが自分の「愛」の器を大きくし、「悟り」の向上のなかで素晴らしい人生を築き、その幸福を周りの人々や社会に広げて「ユートピア建設」を推し進める――。それが幸福の科学の活動です。

    http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/about/

    また、幸福の科学の根本経典は、「仏説・正心法語」、信仰の対象は、エル・カンターレという神である。また、エル・カンターレ=教祖大川という図式も成り立つ。仏教、儒教、キリスト教などの教義がすこしとりいれられているように感じる。なかんずく仏教思想の影響が強い(下の教義の中で、「仏法」「輪廻」という言葉がたびたび使われている)ように感じる。ただ具体的に仏教思想について書かれていないため、どうも表面上だけの援用という印象を受ける。

    幸福の科学の信仰の対象は、地球系霊団の最高大霊、主エル・カンターレです。大川隆法総裁は、主エル・カンターレが地上に下生(げしょう)された存在であり、過去、その意識の一部が、インドで釈尊として、ギリシャでヘルメスとしてお生まれになったことがあります。

    主エル・カンターレは、人類の始まりに先立つ悠久の昔から存在し、地球系霊団の創造そのものを司った、地球系霊団で最も古い霊存在です。主エル・カンターレは、地球のすべてに関して最高の権限を持っています。地上にどのような文明を建設するか、どのような時代精神を興隆させるか、その最終判断を下しているのが主エル・カンターレなのです。

    (http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/about/sinkou/

    そして、基本教義は、正しき心の探究と四正道(よんしょうどう)、すなわち愛・知・反省・発展の原理であるとされる。

    ・正しき心の探求

    人間は仏より永遠の生命を与えられ、この世とあの世を転生輪廻しながら、霊的な向上を目指している存在です。人間の本質は「心」であり、死後、あの世に持って還れるものは、「心」しかありませんし、今世の人生の幸・不幸も、心のあり方によります。ゆえに幸福の科学では、「心」を磨き高めることを修行の中心にすえ、「正しき心の探究」を修行の目標としています。この「正しき心の探究」の具体的修行課題として、「現代の四正道」と呼ばれる幸福の原理、「愛・知・反省・発展」が説かれています。

    ・愛の原理

    「人を愛しなさい」という教えです。世の中には、「愛は人からもらうもの」「誰かが自分を幸福にしてくれるもの」と誤解している人が大勢いて、「もっと自分を愛してほしい」「人々の評価や賞賛がほしい」と思いながら満たされずに苦しんでいます。しかし、これは、本当の愛ではありません。「奪う愛」であり、執着なのです。

    本当の愛は、見返りを求めず人に与えることです。人を愛することです。「自分が何をしてもらえるか」ではなく、「自分が何をしてあげられるか」を考えることです。この「与える愛」こそが、幸福の出発点です。人を愛したとき、その瞬間に仏から光が注がれ、仏に近づくことができます。それが仏の子である人間にとっての本当の幸福なのです。

    ・知の原理

    仏法真理の知識を学び、仏の心を知るということです。「知は力なり」と言われる通り、「人間は仏から永遠の生命を与えられた霊的な存在である」「愛とは与えるものである」「苦難・困難は魂を磨く砥石である」といった仏法真理を知るだけでも、悩みや苦しみに対する考え方が変わり、幸福への第一歩を踏み出すことができます。さらに、知識として学んだ仏法真理を、家庭や職場で実践し、経験を通した「智慧」に変えていくことで、私たちは人生の悩みを解決し、本当の自由を手にすることができるのです。

    また、幸福の科学は、「人々を幸福にするものなら、世の中の新しい知識や技術も積極的に取り入れていく」という開かれた宗教であり、読書や勉強によって教養を深めることも奨励されています。

    ・反省の原理

    幸福な人生を送るためには、反省が必要です。私たち人間は、地上に生まれた以上、さまざまな間違いを犯すことを避けられません。しかし、怒りや怨み、嫉みなど、誤った思いを発しやすい心で生きると、同じ傾向性の悪霊に憑依され、不幸な人生を送ることになります。そして、そのままあの世に還れば、自分の傾向性と同通する暗い世界、すなわち地獄に堕ちてしまうのです。

    仏法真理を知り、この世で反省できる人は幸いです。仏法真理に照らして、日々、自分の心を点検し、「自分は間違っていた。今後は同じ間違いをするまい」と修正していけば、心が浄化されて人生が好転し、死後、天国に還ることができるのです(幸福の科学では、八正道をはじめとする具体的な反省法を教えています)。

    ・発展の原理

    発展とは、自分も他の人々も、ともに幸福になっていこうという気持ちです。私たちは、自分の魂を向上させるという目的だけでなく、「地上にユートピアを建設する」という尊い使命を持って生まれてくるのです。

    仏法真理を学び、実践することによって自分が幸福になったら、それを自分一人だけの幸福で終わらせるのではなく、まわりの人々に広げていくことです。多くの人々と喜びを共有することで、魂の幸福感はいっそう強くなります。家庭へ、職場へ、地域社会へ――仏法真理を伝え、愛の輪を広げ続けるならば、地上は幸福な人々に満ちた世界、ユートピアになるのです。

    (http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/about/osie/

    そもそも釈迦は、人間が愛を求めたり与えたりすることを「渇愛」と呼んで戒めていたような人だから、人を愛して、仏から光が注がれることはあるまいと思うけれど、どうやら大川教祖が、自分では仏教思想のつもりで述べているところに、キリスト教的な考えが混ざっているように思われる。

    ともかく、幸福の科学の教義は、人を愛し、教養を深め、仏法真理に従い、周囲に仏法真理を広めることで、心を正しくしてゆき、幸福に至る。一人の幸福を、周囲に広げてゆくことで、幸福を共有し、その幸福感はますます強くなる。その幸福の連鎖が進むと、やがて世界中が幸福で満ち溢れ、一種のユートピアが建設される。

    幸福の科学が対象とする「生きる苦しみ」は、やはり仕事の悩み、ストレス、家族の悩みなどの、現代人ならば誰しも抱えているようなものを対象としている、と考えられる。そこから「精神を守る」手段が、上記のユートピア建設なのである。

    結論

    以上より、宗教の根本理念が、「生きる苦しみに対して精神を守ること」がほぼ示せたと思う。しかし全ての宗教が、厳密に「生きる苦しみに対して精神を守ること」を目的としている訳ではなく、いくらか幅がある。それは何も僕の定義が不十分だから、という要因もなくはないだろうけれど、むしろ人間の信じるものなんていうのは、いい加減なものなのだという要因の方が、大きいであろう。

    参考文献

    ・“Adherents.com”より

    “Major Religions of the World Ranked by Number of Adherents”

    http://www.adherents.com/Religions_By_Adherents.html

    ・幸 日出男、扇田 幹夫、関岡 一成共著「世界の諸宗教」三和書房 1981年

    ・Paula R. Hartz“ZOROASTRIANISM”原著

    著者P・R・ハーツ 訳者奥西峻介「ゾロアスター教」青土社 2004年

    ・井上順孝、孝本貢、津島路人、中牧弘允、西山茂編「新宗教教団・人物事典」弘文堂 1996年

    ・「エホバの証人: ものみの塔協会公式ウェブサイト」http://www.watchtower.org/j/

    ・「SOKAnet:創価学会公式ホームページ」http://www.sokanet.jp/sg/sn/index.html

    ・「【 Aleph(アレフ) 公式サイト 】 苦しみからの解放と解脱・悟りを説く」http://www.aleph.to/

    ・「幸福の科学 公式ホームページ」http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/

    (了)