田舎でも都会でもない町について(ショーン・プレスコット「穴の町」)

読んだ。 穴の町、という日本語タイトルは少し元より説明的になっていて、 原題は"The Town"なので、より抽象的だ。

ストーリー

翻訳者の岸田絵里子という方のあとがきがいい感じで要約してくれているので、引用する。

作家志望の〝ぼく〟は、オーストラリアの東南部に位置するニューサウスウェールズ州、その中西部にある、名もなき町にやってくる。 ゆっくりと衰退の途をたどり、世のなかから忘れ去られようとしている地方の町々をリサーチし、それをテーマに本を執筆するのが目的だった。 〝ぼく〟がそこで知り合うのは、人生のある段階で挫折を味わい、惰性で生きている人たちだ。 以前は繁盛していたのにすっかり客足の途絶えたパブを黙々と営むジェニー。 若いころにミュージシャンの道をあきらめて以来、だれも利用しない路線バスの運転手をしているトム。 就職にも結婚生活にも失敗したすえ、毎日スーパーマーケットに入り浸るようになったリック。 ほかの町民たちも、町の恒例行事でここぞとばかりに痛飲したり、喧嘩や破壊行為に興じたりすることだけを愉しみに、漫然と日々を過ごしているように見える。 鉄道の駅はあるけれど、もはやそこに列車は停まらず、おおかたの道路は無秩序に延びて終端が行き止まりになっている。 町はずれの地平線上には不気味なかげろうが壁のごとく立ちはだかっている。 人々は停滞と退屈による麻痺状態に陥って、芸術や文化への関心も、町を離れる気力も失っている。 栄えた時代が昔はあったのかもしれないが、町の歴史と言うべき出来事を、なぜかだれも覚えていない。 その町には未来がないばかりでなく、過去もないのだ。 あきらめと倦怠が漂うその町で、ただひとり変化を望みつづけているのが、だれも聴かないコミュニティ・ラジオ局のDJ、シアラだった。 まだ年若い彼女は、音楽でなんらかのムーブメントを起こそうと、ひとりであれこれ試みている。 いつまでたっても町に馴染めない〝ぼく〟は、ある不可解な現象に見舞われたシアラと、その風変わりな日常に引きこまれていく。 そんなある日、なんの前ぶれもなく、謎の穴が次々と出現して町の存在を脅かしはじめ、〝ぼく〟は町が文字どおり消えていくのを目の当たりにすることに──

町を書くこと

最初読んだとき、何となく昔の村上春樹っぽさを感じたが、 それはプレスコットがカフカに影響を受けていることから来ているっぽい。

町の全貌をつかむには、そこで何年も過ごすしかない。そうして初めて、町の境界で揺らめく光の壁を目にし、その境界の意味するものを知ることができる。 見慣れた光景の一部の異様さに気づくには、その町で何年も過ごすしかない。そうして初めて、一日のある時間に、静かな通りの終端の、ごく限られた位置に立って、どこかほかの場所にいるふりをすることができる。古いガス工場のはずれに立って上方を見つめ、町の外の不確かな世界のひとつにほんの一瞬入りこんだ気になることができる。

この書き出しの通り、この小説は町についての小説だ。 主人公はどこから来たのかわからないし、名前もわからない。 「消えゆく町」をテーマにした本を書こうとしていることだけが個性で、他には何もない。

僕の最初の印象だと、「消えゆく町」なんてものは悲観的な想像の産物で、 実際には存在しなくて、没個性的な主人公(あるいは作者)が何か価値を保つために、人とは違う何かを言いたくて、たどり着いたものなのだと思っていた。

ただずっと読んでいくと、町が消える、というのがどういうことがだんだんわかってくる。 小説中ではカフカ的に描写されるが、確かに町は消えうる。 デトロイトや夕張市みたいに財政破綻して、荒れ果てて、やがてゴーストタウンになる、という風な形ではなく、 もっと何も起きずに、ゆっくりと静かに消滅する。 あとがきの情報を見る限り、作者のプレスコットはそういう光景を実際に見たんだと思う。

田舎でも都会でもない町

小説の舞台はオーストラリアなので、とにかく国土が広い。 田舎、という言葉にはいい意味と悪い意味がある。 いい文脈で使うのであれば、豊かな自然、美味しい食べ物、のどかな生活、一面に広がる畑、広がる草の匂い、などなど…… そういう所謂「田舎」と、「消えゆく町」はまた違う。

昔会社の人と埼玉の東松山あたりを車で走っているときに、 その辺りの景色を「悪い田舎」という表現で話したことがある。 自然があると言えばあるが、道端に伸びた名前のよくわからない草が、幹線道路を走る車にそよぐような風景だ。 人間が癒されるような田舎の風景ではない。

「消えゆく町」は、そういう郊外の町に近い。 けれど東松山はまだ東京に近くて、多少衰退することはあっても、消えるようなことはないだろう。 人が住んでいれば町になるが、その逆で人が住まなくなれば町ではなくなる。 北海道あたりを探せば、同じような町はあるかもしれない。

それはただの平原よ、とシアラは最後に言った。

構成

第一章は本当にひたすら町について書かれている。 スーパーマーケットで主人公が働いて、カフェに行って、パブに行って、図書館に行って。 あまり話も動かないので、この小説はずっとこんな感じで続くのかな、とすら思った。 主人公は結局「消えゆく町について書くんだ」とうだうだ言いながらスーパーで働き続けて、 そのまま本が完成しないまま人生を終えるんだろうなあとぼんやり思ってしまった。

けれど第二章で町に穴があきはじめて、ちょっと空気が変わる。 主人公や登場人物が特にその穴に対して何かする訳でもない。

第三章では遂に町を出て、都市に向かう。 その辺りまでいくと話も結構動く。

永遠の観察者

この小説の描写でよかったなあと思った点を上げていく。

都会とか田舎とか二項対立にしたくないけれど、 地元に残り続けるタイプの人間というのは、観察者としてのメンタリティを持っている、という風に感じる。 自分は普通の人間である、という自負を強く持っていて、そういう行動をとる。 地元の人間関係の中で生きて、噂話で変な人間の情報を共有して、 テレビで外の世界の情報を吸収するようなライフスタイル。

シアラと主人公はそんな町の人々とはちょっと違うようにも見えるが、 実際のところ観察者としてのメンタリティからは抜けられていない。

シアラはあくせく働くことには意味がないと考えていた。 たぶん都市に住んでいれば、面白い仕事に就くことができて、働く意味を見出せるだろう。 この町の住民は、身内の仕事を引き継ぐか、給油係になるか、スーパーマーケットの商品陳列係やレジ係になるのがせいぜいだ。 でなければ、町議会のために幹線道路の整備をするか。そんな仕事のどこに意味が? 大学にも行きたくなかった──と東へ手を振り向けて言う──だって、正式に真実と認められた何かをそれ以上知ってどうするわけ?
この町の人たちにとって、音楽は自分たちを映し出すために存在するのではなく、自分たちが町を映し出すために存在するのだった。 すなわち、とにかく町にふさわしく生きようとしている様子の人たちや、無意識に体をスピーカーのほうへ向け、周りが妙な雰囲気でもそしらぬ顔をしている人たちだ。
あるいは、彼らは何も試みておらず、試みないことで救われているのかもしれない。

最後にシアラは都市で観察者から抜け出して、はじめて自分の生きる世界を見つける。 それはただ怪しい地下世界だったが……

スーパーのバイトにすら落ちるリック

ウールワースというのはオーストラリアに実在するスーパーのチェーンらしい。 日本だとイオンみたいな存在なんだと想像している。

そんなスーパーで働いている主人公のところに、リックという変人が度々あらわれる。 リックはどうしようもない無能で情けない若者として描かれる。

結局はみな学校を出て、両親がたやすくやってのけたように仕事に就いて結婚し、みな公園ではなくパブで、相も変わらず酔っ払うのだろうと。 そういう計画のどれかがうまくいかないはずはない。 なぜなら自分たち以前にだれもがそうしたようだし、だれもがそうしたなら難しいわけがないだろう。 結局、自分にとって人生はひどく困難なものになった、とリックはぼくに言った。

彼はウールワースに採用される日を夢見て、毎日ウールワースに通っている。 両親と同じくらい豊かになることができない、というのは悲しい。

自分がばかなのは知ってるし、スーパーマーケットに夢中になって、そのなかにしか人生を見出せないのもばかみたいだと思うよ、とリックはぼくに言った。 きみが自分よりずっと頭の悪い人間と会話してるつもりでいるのは、声の調子を聞けばわかる。 きみはきっと、自分は立派な行いをしている、はるかに能力の劣る人間を救おうとしていると思っていたんだろう。

日本の若者にも閉塞感があるが、ヨーロッパやオーストラリアと言ったアメリカ以外の先進国も状況は似たようなものであるように思う。 昔よりも適切に設定された採用システムが、若年層を厳しい競争に晒している? あるいは発展途上国の成長で、国内の雇用が奪われた? その辺りの分析はよくわからないけれど、閉塞感は思った以上に似通っている気がする。

リックは生まれ育った町を出ることもできない。 悲しいけれど、もう彼の人生はほとんど終わっている。 地元で親のような仕事をして、子供を作って、孫の顔を見せることもできなければ、 都会に出てスーツを着て働くこともできない。 そういうのって、なんだか生まれた町に閉じ込められているみたいだと思う。

都会と田舎、そしてその中間地点の町

都会と田舎というのは、僕の中でも大きなテーマだった。 十代の頃は単純に都会というものへの嫌悪感が大きかったが、 二十代で苦しみながらようやく都会というものを受け入れて行った。 (というより上手い距離感の取り方を学んだだけかもしれない)

実際のところ、都会という場所がある訳でもなく、田舎という場所がある訳でもない。 都会と郊外、田舎というものに厳密な区分はないが、 (地理学とかやればもしかしたらあるのかもしれないけど) 町を少し歩いてみれば、そこが都会なのか田舎なのかはすぐ感じられる。 そしてそこに何日か住んでみれば、自分の感覚が正しかったこともすぐに確認できる。

地元に戻る気がない人間は、地元以外の場所をどこか選ばなくてはならない。 その当たり前のことに僕が気づいたのは本当にごく最近のことだった。 そして単に旅行して自分が気に入った場所に住む、ということはできず、 現実的にそこで職を得て、地域社会に溶け込んでいかなければいけない、ということもあわせて気づいた。

そういう目線を持ったとき、町の見え方も変わって行った。 それまでは電車の駅や有名な観光施設くらいしか見えていなかったけれど、 街を貫いている大きな道路とか、そこを走る若い夫婦が運転する軽自動車とか、 歩道橋だとか、LED式の信号機(交通インフラの整備状況を反映している)だとか、 倉庫にスプレーで描かれた落書きとか、ランニングする人々の服装だとか、道端のパン屋の雰囲気だとか、 そういう細々としたものが有機的に結びついて、一つの町として感じられるようになった。

そんな自分の感覚と、小説のなかの描写が上手いこと結びついて、色々興味深く読むことができた小説だった。

(了)