富と権力
講義中にふと、「人類の歴史を富と権力の独占という視点から解釈したらどうだろうか」と思ったので、それに関する論考を書く。 このことは人類普遍の現象だと思うけれど、僕の知識の問題から、日本史に限定する。 何事も半ちくな知識で語るのはよろしくない。
原始時代
原始時代における富とは、即ち食糧と言っていいだろう。 日本では稲作が伝来し、農耕が定着して以来、食糧の備蓄が可能になり、富がうまれた。 そして、権力者に富が集中した。 権力者は何かしら「力」を持っていた。 これは単に力が強く、「お前の食い物をよこせ!」と暴力的に奪っていたということではない。 そういう武力型の権力者が持っていた「力」というのは、必ずしも腕力を意味しない。 村落を外敵から守る作戦を考える「知力」であるかもしれない。 人間的に優れていて、尊敬を集めていて、それが「力」であったかもしれない。 邪馬台国の卑弥呼がそうであったように、腕力0だが、「呪力」を持つ、宗教的リーダーかもしれない。 権力と宗教が純粋に結びついていた点で、古代は興味深い。 「呪力」で権力を握るのは、実は結構難しい。 何かしら「奇跡」をおこさなければいけない。 日照りの時に祈ったら雨が降ってきただの、海が割れただの、「復活」だの、奇跡の伝承はさまざまに残っている。 無論現代を生きる我々には真剣に信じがたい。 しかしそういう伝承が起こったのには、何か原因があるはずで、 奇跡の実態がどんなものであったかを考えることはなかなか楽しい。 話が脇道にそれたが、古代において、権力は富を集めた。
古墳時代になると、権力者たちは富を子孫に残すことを考えるようになった。 古墳は要するに権力の象徴であった。 死してなお権力の威光を放っていたいという権勢欲。 ヤマト朝廷の「氏姓制度」は、単なる偶然の産物ではない。 古代さまざまな理由で権力を握った者たちは、それを子孫に残そうと画策した、その結果である。 経済学のモデルだと、実は遺産の存在は結構厄介だったりする。 というのは経済学で家計の効用最大化の記述中には、基本的に遺産を残すような動機は存在しないからだ。 しかし現実の権力者は、自分の衣食住を満たして、贅沢を満喫すると、 今度はその幸福を自分の子供、親族にまで分け与えようとする。 別に人間には利他心とか家族愛とかがあるんだよ、素晴らしいね、という話ではない。 自分の血族に富と権力を継承させ、広げていくことで、より質の高い満足が得られるというだけだ。 権力者は、権力を遺伝的なものにしようとしていた。 自分の血そのものが権力であるような状態を夢見ていた。
飛鳥時代〜平安時代まで(貴族の時代)
別に細かい日本史を見ていくのがこの論考の趣旨ではない。 豪族は紆余曲折をへて、貴族になった。 貴族というのは、まさに「血=権力」である。 彼らは極端なことを言えば、寝てるだけで、後は他の小役人が徴税官となって、 全国のあくせく働く愚かな農民どもの税が集まってきた。 (ただ実際は農民もありとあらゆる手を使って税金を逃れていたので、 「貧窮問答歌」の哀れな農民像を一般像とするのははちょっと事実とずれている。 農民も人間なので、座して徴税に従っていた訳ではない) 日本における権力の一つの完成形がここで出来た。 もはや権力者であるのに理由は要らなかった。 貴族は権力者であるから権力者であった。 正確に言えば、父親の権力が彼の権力を裏付けていた。 父親の権力はその祖父が、祖父の権力は……と原始時代に遡っていく。 もっともそんな古いことは彼らも知らなかったろうが。
では彼らが権力を握る正当性はどこにあっただろうか。 全く肉体的労働から解放され、家の中の些事でさえ下男下女にやらせて、 日がな一日中暇こいてて、和歌と蹴鞠と色恋沙汰だけが娯楽の青白い平安貴族どもは、 その退屈ゆえに、あくせく働く農民よりも社会全体が見えて、政治をつかさどるのに適している? そんな馬鹿な。 貴族は権力の究極形ではあるが、しかしここに至ると、もはや権力の正統性は失われてしまっている。 ちょっとここまでの流れを整理しよう。 最初、権力には正当性があった。 武力があった。知力に優れていた。呪力があった。人望があった。 そんな人間に権力が集まった。 権力は富を集めるから、やがて更に財力という「力」を得るようになった。 権力が権力をうむ構造が出来上がる。 やがて権力者は寿命を迎えるが、子孫に権力を継承させる。 子孫はもしかしたら親の遺伝・教育で、権力に見合った能力を持っているかもしれない。 しかし歴史はその確率が予想以上に低いことを証明している。 枚挙に暇がない程である。 それでも基本的には権力争いで淘汰されない限り、権力は子子孫孫継承されていく。 するとやがて権力者の無能化が起こる。 平安貴族は無能化した権力者の例としては、最適すぎる程だ。
鎌倉時代〜室町時代(武士の時代前半)
正統性を失った貴族にかわって、権力を握ったのが武士であった。 武士を単純な暴力装置と考えるのは大きな間違いである。 もちろん戦闘能力が低かったらカッコつかないが、 それ以上に知性であるとか、人間性であるとかが重視された。 単に腕っ節が強い豪傑が、武士の中で権力を握れた訳ではない。 那須与一は明らかに源頼朝、平清盛よりも弓が上手かったし、 塚原卜伝、宮本武蔵などの剣豪は権力を握るどころか食いぶちにも困っていた。 「単純な暴力装置」が長期的に権力を握ることはなかった。 言うなれば知勇をかねそろえた「総合的暴力装置」性が、武士階級で権力を握る条件だった。
貴族は武士に権力を奪われるのを黙って見ていただろうか。 日本の権力史の奇観は、貴族と武士が並立していたことである。 貴族側の抵抗はごく例外的にあった。 その代表が後醍醐天皇であり、南北朝時代である。 立川流という密教を信奉し、何度島流しにあっても不屈の精神でカムバックした、 異常な天皇であった後醍醐天皇は、結局建武の新政、南朝政府樹立をもってしても、 もはや平安以前のような貴族中心の権力形態に戻ることはできなかった。 むしろ彼の情熱は、結果的に武士の優位性を如実に示してしまった。 実際南朝が数十年続くことが出来たのは、北朝内部のごたごたのせいで、南朝の実力ではない。 もし北朝が内部で争わなかったら、そもそも「南北朝時代」などはなかったかもしれない。 結果的には南北朝以降、貴族は単に文化的な存在になった。 和歌読んで、日本の古きよき「雅」を体現してくれる存在、それだけが貴族の価値となり、 一応形式的には上位にいるが、実権はなく、きわめて文弱な存在となった。 ここで権力と富が一度分離する。 権力は京都の朝廷にいる貴族・天皇が、最高権力を握っていたけれども、 実際の政治運営・税の徴収は幕府(武士)がおこなっていた。 ここで権力は大きく二つに分化して、 形骸化した権力 政治的実権 とわかれて、上を貴族、下を武士が握った。 注意すべきはあくまで形式上は上の方が下よりも強い権力であることだ。 この貴族の「骨抜き政策」とも言えそうな展開は、驚くべきことに、 今日まで天皇家を存続させるという後醍醐天皇もびっくりの結果をもたらした。
鎌倉から戦国まで、さまざまな事件が起こったが、結局の所武士階級内部の権力争いである。 武士が権力を握る正当性が、「総合的暴力装置」である限り、より優れた者が出てくれば、当然権力交代が起こる。 結局騒乱を制して、権力を握った優秀な「総合的暴力装置」も、 その子孫の代になってくると、その正当性はあやしくなってくる。 源頼朝→足利尊氏→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康という流れが、それをよく表している。 幕府というのは、そのあやしい正当性を出来るだけ正当化しようとする試みであった。 長期政権になればなるほど、その正当性は薄れ、権力交代を強いられることになったが。 では徳川幕府がどのようにその正当性を保ったのか、というのが次の話に。
江戸時代(武士の時代後半)
江戸幕府の政策は巧妙であった。 政策の目的は全て武士を窮乏化させることにあった。 ただこの窮乏化政策が進みすぎて、幕末には当の江戸幕府まで財政難に陥っていたのは笑うべき話。
さて、江戸時代で重要なことは、権力を握る新たな階級が台頭したことだ。 それは貴族でも、武士でも、ましてや宗教家でもなかった。 そう。商人である。 士農工商という身分秩序の中では最も下位に位置づけられながらも、財力によって実権を手にした。 江戸時代末期には、(たとえば坂本竜馬の祖先が有名だが)商人が藩に多額の寄付をすることで、 武士の身分を「買う」ことができた。 もちろん長い歴史上、権力者階級はある程度変動してきた。 原始の権力者→現代の権力者 原始の非権力者→現代の非権力者 とストレートに流れ来ている訳ではない。(当たり前すぎて言ってる僕が馬鹿に見えるかもしれない) 長い歴史の中で、権力の座から脱落していく者、権力の座に上り詰めていく者、色々あったろう。 百姓から関白までのぼりつめた豊臣秀吉を思えばいい。 しかしこういった人々はかなり例外的な存在で、基本的に権力は独占されていた。
商人の富がこの独占を打ち破った。 江戸時代から後は、富と権力の癒着という話になってくるが、その萌芽が日本では江戸時代に出てくる。 欧米では、商人階級の進出はもっと早かった。 これは単に日本が貧しかったからである。 商人階級の扱う富が小さく、権力を左右するほどの財力を持てなかったがためである。 一番致命的なことは、農業生産力が低かったことだ。 天候不順、自然災害で日本は簡単に飢饉に陥った。
江戸時代は(日本史内の話ではあるが)飛躍的に農業生産が拡大した時代でもある。 日本の資料集によると、
1598年 1851万石 1697年 2588 1830年 3056 1873年 3201
と、農業技術の進歩、開拓事業などによって、江戸時代の約250年の間に、農業生産は二倍近くになっている。 米1石は150㎏(2.5俵)だそうなので、 これを採用すると、江戸末期には約48億kgの米収穫量があった計算になる。 2008年の日本の米の生産量が、約1100万トン。 (このサイトによる) 1トン=1000kgなので、なんと1100億kgの米の生産量がある。 (減反政策だの、「米離れ」だの言われて、 日本全国の耕地を最大限活用していないにも関わらず、である) この数字は、いかに江戸時代の農業生産が低かったかを如実に示しているだろう。 士農工商という身分制度は、現代ではほぼ逆転してしまった観がある。 しかし江戸時代の農業生産量を考えれば、農民が上位にいることは何も不合理でも不自然でも何でもない。 いかに江戸時代に農業生産が拡大したからって、そんなものは微々たるものであった。 工業品、サービス業というのは、仮になくなっても、不便ではあるが、すぐに死ぬことはない。 ところが食糧が枯渇すれば、我々はすぐに死ぬ。 爆発的な富の蓄積が起こるには、まず食糧の心配がなくる程の生産量がなければならないが、 どう好意的に考えても日本の土地が農業に向いているとは思えない。 戦国時代に日本へ来たイエズス会の宣教師たちの報告に、 「日本の土地は農耕に適さず、植民地にする価値はない」 というものがあったが、その通りである。 山が多く、平地の少ない土地柄の上に、自然災害も多い日本は、元来農業に比較優位を持たなかった。 結局この農業生産力の低さから解放されるには、戦後を待たなければいけない。
とはいえ、江戸時代からじわじわと富の蓄積がはじまる。 士農工商の最下層に位置づけられながらも、ある点では武士をしのぐ程の権勢を持つ商人が出始めた。 たとえばヨーロッパのメディチ家のように、 すさまじい財力で、政治・宗教・文化・経済とあらゆる権力を集める程の大富豪はまだ出てこない。 前述の通り、日本の「富」はたかが知れていたので、その財力もおのずと限界があった。
明治〜昭和戦前(富と権力の癒着)
思った以上に長くなってしまって、僕はすっかり疲弊している。 江戸幕府の藩を窮乏化させる政策は見事成功し、幕府は史上稀にみる長期政権となった。 恐らく西欧の干渉がなければ、もっと長く続いたのではないだろうか。 ただ黒船の来航、開国要求は、全く予想だにしない事態であった。 その点彼らは不幸であった。 国内の権力争いで、ほぼ完全なる勝利をおさめたはずであったのに、 ヨーロッパではもっと巨大な権力があった。 「日本」として、先進文明をもった野蛮人どもにどう対応していくかを迫られた時、窮乏化政策は最低の政策だった。 工場、大砲、戦艦、銃、食糧。。。 近代戦にはとかく金がかかった。
この時、もはや武士には権力の正統性はなかった。 「総合的暴力装置」であった彼らは、既に中世の遺物でしかなかった。 ちょうど平安末期に貴族が権力の正統性を失っていたのと同じ道を、 しかし大分違う形で、武士はたどることになった。 彼らの権力の正統性を奪ったのは、「暴力の技術革新」であった。 つまり銃、軍艦、大砲の発明である。 銃と、弓や刀槍は、全然違う武器である。 弓や刀槍は扱う人間によって、大きくその武力が変わる。 やせおとろえた病人に刀を持たせても、何もわからない幼児に弓矢を持たせても、それは暴力として機能しない。 訓練がいる。 ところが銃は、引金を引いて、命中させるだけで、一瞬で人の生命を奪うことが出来る。 (反動に耐えることや、狙いをきちんとつけること、弾をこめることは必要だから、全く訓練がいらないという訳でもないけど) 「暴力」の質が全く変わってしまった。 繰り返すが、武士階級を倒したのは、この「暴力の技術革新」だった。
貴族は古代の遺物、武士は中世・近世の遺物だとするなら、今度は誰が権力を握ればよいのだろうか。 以前であれば、権力者には -武力 -知力 -人望(人間性) -呪力 のいずれかが求められた。 しかしもはや武力は意味をなさない。 呪力はまあ一応権力を剥奪された訳ではなかったが、 宗教家が国を統べる時代は原始時代までで終わっている。 -武力 -知力 -人望(人間性) -呪力 となると残るのは知力、人望の二つであった。 (ここから先進国の学歴社会というものがうまれる。 大学がその人に「知力」のラベルを貼り、がんばって「人望」を得てもらって、 選挙に当選するという民主主義の権力構造になる。 ただ前提条件として信頼にたる教育機関がなければシグナリングもクソもないので、 日本である程度「学歴社会らしいもの」が出来るのは戦後のお話)
彼らが武士階級打倒のために、もはや実権を失ってお飾りだった貴族を担いだのは見事だった。 「王政復古の大号令」などといって、実態はラディカルな革命を、 あくまで表面的には「形式的であった権力構造に実権を戻す」という形を装っていた。 しかし明治維新は結局薩長の下級武士によって主に達成され、明治政府は明らかに薩長閥が主要勢力だった。 貴族は華族に、武士は士族という特権階級に移され、一応の特権階級になった。 しかし権力の中心ではなかった。 基本的には四民平等は定着した。 戦前の政治形態が民主主義か、と言われれば苦笑するしかない。 明治維新は結局の所、新たな権力の独占構造をつくったに過ぎない。 これまで幕府が独占していた権力を、薩長の下級武士たちによって分け与え、新たに再編しただけである。
この再編で、大きな変化がある。 「財閥」が権力の中に組み込まれたことである。 知っての通り、三井財閥は立憲政友会と、三菱財閥は立憲民政党と蜜月関係にあった。 富と権力の本格的な癒着構造が始まったのだ。
なんだか矛盾したことを言うようだが、日本が太平洋戦争に負けた、 それと太平洋戦争をせざるを得なかったのは、日本が貧しかったからである。 日本人の素晴らしい民族性(なかば本気、なかば皮肉で)で、 「我々は貧乏であるが、なぜそれを恥じなくてはならないのか」 「欧米より貧しくとも、精神は欧米よりも気高い」 という清貧思想をもって、我々の先祖は経済軽視を貫いた。 正確に言えば、経済を軽視していた訳ではない。 戦前の日本政府の主な関心は軍事と外交と経済の三つであったと言ってもいい。 戦争をするためには金が要るから、経済は大きな関心であった。 しかしせいぜい殖産興業をうたったり、賠償金で製鉄所立てる程度が関の山で、 なぜ自分たちが貧しいのか、その真の原因を分析して、直視しようとはしなかった。 欧米を学ぶ態度はきわめて表面的でしかなかった。 街並を真似てみたり、工場を建ててみたり。。。 経済成長理論をくだくだしくやる気はないが、 本当に当時の日本で重要だったのは、 -農業生産量の拡大 -労働生産性の改善 このたった二つであった。 しかし日本の土壌と当時の農業技術では、農業生産には限界があった。 農業生産量の低さを直視しないまま、日本政府は工業の発展を目指した。 そして最悪なのが労働生産性。(これは現代日本でも低い) 何せ 「効率が悪かろうが何だろうが、徹夜して努力しまくれば出来る!!!!」 のスポ根文化が今も昔も変わらないために、労働生産性が極度に低いのです。。。 別にちょっとした生産活動だったら、多少効率悪くてもゴリゴリ推し進めて構わないんだけども、 それがこと工場全体のシステムだとか、マクロ経済にかかわるような話だと、 「1時間で100個つくる」効率的なシステムで一日八時間努力するのと、 「1時間で50個つくる」非効率的なシステムで一日十五時間努力するのは、 前者の方が50個多く生産できるという残酷な現実が待っている。 これを体現していたのが戦前の日本とアメリカであった。 (別にこの精神主義は悪者ではなくて、それはそれで優れた文化だと思う。 要は効率的なシステムで十五時間努力すればいいだけの話なんだけど)
第二次世界大戦前・戦中の主要国国力 戦前の統計はほとんどネットに上がっていないし、あってもあんまり信用できなかったりするんだけど、 とりあえず上のサイトで戦前の先進国のGDPが見れる。 日本の国力は驚くほど低い。 (1939年の15.8%の経済成長辺りから経済統計を粉飾してるにおいを感じる。 戦前の経済統計、特に戦争中の日本みたいな政府の公式発表で平気で嘘を垂れ流してた状況だと、 信じろという方がむりだ。大体1939年にこんなに経済成長する理由がどこにあるよ? マイナス50%成長をしてるが、 これは一年で急に下がったというよりは、戦時中の粉飾がたまりにたまってこうなったと解釈する方が自然に思う)
さて、話が脇道にそれすぎた。 近代の「権力」というものは、江戸時代以前に比べると、全く軽くなってしまった。 朝廷の天皇、幕府の将軍のような絶対的な権力が日本政府には存在しない。 総理大臣の握っている権力は、比較するとごくごく小さなものだ。 権力は明らかに分散されていた。 戦争に突き進む際、軍部が台頭する訳だけど、 これは民主的な貴族と化した政党政治が、権力の正統性を失ったと考えられる。 武士が貴族から権力を奪った過程と、 軍部が政党政治から権力を奪った過程は酷似している。 歴史は形を変えながら繰り返している訳だ。 ただ知っての通り、軍部は刀を抜いたはいいが、鞘の納め時を逸して、 結局日本は無条件降伏という形をとることになった。
軍部の醜態は今更僕が半端な知識で補強するまでもなく、 戦後知識人(真っ赤な知識)によって散々説かれてきた。 しかしなぜ、日本は国家総動員で立ち向かったのに、これほどあっさり負けてしまったのだろうか。 日清戦争、日露戦争も戦力差としては相当だったはずだ。 「暴力の技術革新」は、明治以降も、とどまることなく進んでいた。 戦闘機、焼夷弾、戦車。そして何より原始爆弾。 これらのものを開発するには、「富」が必要であった。 それこそ日本に一番欠けていたものであった。
「1時間で100個つくる」効率的なシステムで一日八時間努力するのと、 「1時間で50個つくる」非効率的なシステムで一日十五時間努力する
と先ほど書いたが、太平洋戦争は 「1秒で100人殺す」効率的なアメリカの「暴力」と 「1分で100人殺す」非効率的な日本の「暴力」との戦争であった。
余計な話が多かったので、最後にまとめると、 明治から戦前の時代は、富を得た商人(財閥)が権力と癒着するようになった。 しかし日本全体で見ると、富の絶対量は明らかに不足していた。
戦後(富の膨張)
・権力の価値下落 原始爆弾は、今現在「暴力の技術革新」の一つの終着点となっている。 水爆など、破壊力は改良されていっているが、今の所核兵器以上の大量殺人兵器は開発されていない。 「暴力の技術革新」は、皮肉なことに、かえって平和をもたらした。 我々人類は既に技術的には地球上の人類を全て滅ぼすに足るだけの、核兵器を持っている。 ただそれが、威力が大きすぎて使うことが出来ない、という滑稽な事態をもたらした。 ソ連とアメリカは結局一度も直接戦争をしなかった。 もし核兵器が開発されていなければ、彼らは実際に放火を交えただろう。 仮に暴力史というものを考えると、三つの時代にわけられる。 +肉体的暴力 +銃による暴力 +核による暴力 暴力によって権力を得ることは、実際上不可能になった。 どう考えても政府が持つ核兵器以上の暴力は、いかなる革命家にも達成できない。 日本は核武装していないが、自国の政府が核を持っているかいないかはあまり関係がない。 暴力は国家が統制して、きわめて職業的に継承していくことになった。 それが国家権力を高めたか、というとそうでもない。 暴力の価値が暴落してしまったのだ。 昔であれば東海一の弓取りは日本全国を統べることになったが、 現代ではせいぜいアーチェリーに転向してオリンピックに出るのが関の山だ。 暴力の価値が下がったことは、権力の価値をも下げた。 古来暴力は権力者の独占品であったはずであった。 徴税を拒む不届き者は徴税官に拷問されても文句は言えなかったが、 現代ではそんなことはできない。 また権力が富を集めていた構造も、現代では変わってしまった。 集めた税金は一円単位で(わかりづらい会計書をつくって)公表し、 一応むだづかいはしていません、皆さんのお役に立てていますよ、と発表することになる。 (無論抜け道はあるが) それが戦後の日本の選挙制度だ。
・富の膨張 さて、富の不足を強調してきたが、知っての通り、 戦後日本は飛躍的な経済成長を達成し、斜陽のヨーロッパ経済を追い抜いていった。 (バブル崩壊以降は二十年間停滞しておりますが)
こちらのサイトの世界経済の農業生産物のベスト20の、 生産量推移をまとめたグラフだ。 ある程度世界は飢餓を克服しつつある。
戦後の比類ない第三次産業の拡大は、富の膨張をうみだした。 日本人は当たり前のように、将来はサラリーマンになることを想像している。 しかしこれは歴史的にも経済的にもちっとも「当たり前」ではない。 サラリーマンというのは第三次産業従事者であり、何か「モノ」を生産する仕事ではない。 windowsを売りさばいて巨万の富を築いたビル・ゲイツだの、 クソの役にも立たない野球テクニックで一年で数億円の年俸を稼ぐイチローだの、 戦前はとても考えられないような、巨万の富を生みだすようになった。 これは食糧生産の安定に伴い、富そのものが膨張しているのである。 当然富が増えれば、物価が上がることになるが、 今の所貨幣供給量は物価上昇率を上まわっている。 富の総量が増えているのだ。 資本主義勃興期は劣悪な労働環境が問題となり、マルクスの思想をうみだした。 彼は絶対に資本主義は破綻すると予想したが、まさかここまで富が膨張して、 おまけにそれが労働者にもかなりの部分還元されるとは思わなかったろう。
その結果として
いよいよ結論に入る。 史上比類ないほどに膨張した富。 史上比類ないほどに無価値になった権力。 この二つの関係は一体どうなっているのか。 政治的権力はほとんど有名無実と化している。 徴税権にはもはや価値がないのだ。 もはや富は権力に従属していたり、権力を補助したり、権力と癒着しているものではない。 富そのものが権力であり、最終目標なのだ。 小沢一郎がいそいそと金策に勤しむのも、別に彼の心が汚れているからではなく、 権力とは即ち富であるのを、きちんと田中角栄から教授されているからである。
富と権力の独占は解消されたのか?
昔と比較すれば、富・権力がいくぶんか分散された。 ただアメリカのように所得分配が偏ってくると、また新たな富と権力の独占がうまれる。 歴史は繰り返していく。 完全な平等は不可能である。 それを理想として目指すことはできるが、得策ではない。 我々は「よりよい不平等」を志向することになるだろう。
(了)