休みのたびに南の島をずっと回っていた

屋久島(2017)

屋久島に行きたい、と思ったのに強い理由はなかった。 元々数ヶ所しかなかった、海外で行きたかった場所は行き尽くしてしまった。 当時勤めていた会社には夏休みとは別に三日の連続休暇制度があって、土日とくっつければ五日間休めた。

どこかに行こう、と考えたとき、学生の頃、「縄文杉を見たら人生観が変わる」と聞いて、 少しだけ屋久島に行きたかったことを思い出した。 行けなければ行かなくてもいいくらいの、弱い願望。 あわよくばそんなきっかけから、何か本当に人生に光が射すような出来事が起こればいいなという淡い期待。

ヘルニアと散歩

2016年に椎間板ヘルニアを発症して、一切の運動ができなくなったことは、思いのほか僕のメンタルに暗い影響を与えた。 整形外科からもらったコルセットを巻けば、生活することはできたが、それでも痛みは続いた。 それまでの生活は、仕事のストレスを酒と運動で紛らわせていて、その片方がなくなったのだった。 唯一許された運動が歩くことだったので、近所の河原を延々と歩いた。 仕事は順調だったが、何か満たされないものがずっとあった。 そういう空虚な気持ちを埋めるには、散歩では少し足らなかった。 酒の量を増やしてはみたが、電気をつけたまま気絶したように眠ることになるだけで、それが救済とも思えなかった。

沖縄の思い出

そんな日々のなかで、南の島への思いが募っていった。 「沖縄に住みたい」という憧れは、大学生ではじめて沖縄を訪れたときからずっと続いていた。 社会人になってからも、一度沖縄を訪れた。 社会人二年目だっただろうか? 当時大学時代の友人が会社を辞め、公務員試験の受験生をしていて、暇だった。 彼はとにかく金を使わないタイプだったので、貯金だけは何百万もあった。 男二人で一週間近く沖縄に行って、毎日宿を変えながら、レンタカーでひたすら北上した。 念願だったダイビングのライセンスもとった。 仕事は仕事として割り切って、休日は毎日のように海に潜る。 そんな人生もあったのかも。 日焼け止めを塗らなかったせいで肩がやけどみたいな日焼けになったり、酔い止めを飲まないで船に乗ったのでひどい船酔いになったり、色々あった。 沖縄という場所は、学生時代も社会人になっても変わらずに、素敵な場所だった。 特に社会人になってお金ができると、それまでできなかったようなレジャーが楽しめて、もっとよかった。

ダイビングの講師は、30代くらいの関東からの移住者だった。 好きが高じて、自分でダイビング教室を開業して生計を立てていた。 東京というストレスの多い街で、日々消耗している僕から見ると、最高の人生に見えた。 右のスネにタトゥーを入れていた。 船も彼の所有物だった。 ダイビングのライセンス講習の日程が終わった後、次の宿の近くの港まで船で送ってくれた。 他の客は集合場所だった港で解散となって、船の上には僕と友達、ダイビング教室の運営スタッフ三人だけになった。 (女性が一人いた。三人とも真っ黒に日焼けしていた) そして船で港につき、そこから彼らの車で宿まで送ってもらった。 車の中でポツリと「あ〜明日も仕事かあ」とダイビングの講師が言った。 その言葉が僕の中で何か引っかかった。

考えてみれば当たり前のことだが、ダイビングも楽しく潜るならいいが、 客から金をとって教えるとなれば、それはもう仕事だ。 準備もしなければいけないし、安全管理だってしっかりしなければいけない。 ダイビング教室が潰れるのは、事故を起こしてしまうのがきっかけになることが多いらしい。 テキトーにやっているように見えても、そこらへんはシビアだ。 事故を起こしたダイビング教室には、客も来ない。 客が来なければ、店をたたむしかない。

島でレンタカーの運転をした。 一緒にいった友達は車好きで、大学時代から中古車を買って乗っていたが、僕は完全なペーパードライバーだった。 沖縄本島は、那覇空港周辺はそれなりに車が多いが、北に行けば行くほど車が減っていく。 緩やかな山道で、さほど怖い思いもせずに車を走らせることができた。

フェリー

沖縄と違って、屋久島には東京からの空の直行便がない。 一度鹿児島まで行って、そこからフェリーに乗る。 これは種子島に行く際も一緒だ。 たまにわからなくなるけれど、屋久島も鹿児島県の一部だ。 ジェットフォイルの「トッピー」に乗ったと思う。 ジェットフォイルが何なのかよくわかっていないが、普通のフェリーより速いらしい。

雨の降る島

屋久島には、宮之浦と安房という二つの港がある。 僕が行ったときは、宮之浦にフェリーが着いて、そこから路線バスで安房に行ったと思う。 なんでそんなルートを選んだかは忘れた。 敢えてそうしたのか、間違えたのか…… 一人旅のときは、飛行機とホテルだけとって、あとはほとんど調べない。 フェリーも現地についてから、何に乗ればいいか掲示板の表示を見た気がする。

安房の近くのバス停でおりて、しばらく歩くうちに猛烈な雨が降ってきた。 傘なんて持ってこなかったので、安房にあるモスバーガーに緊急避難した。

雨が降ったのはこの日だけだったような気がする。 終始天気は悪く、曇りがちだったけれど、雨が降るとしても夜中で、上手いこと僕の外出時間とズレてくれた。

泊まったホテルには、林芙美子の小説「浮雲」の、

はア、一ヵ月、ほとんど雨ですな。屋久島は月のうち、三十五日は雨というぐらいでございますからね……

という文章が飾られていた。

林芙美子は知らない作家だったが、気になって帰りの鹿児島のブックオフで「浮雲」がちょうどあったので買った。 けれど結局読まないまま、引っ越しのときに売ってしまった。

縄文杉を見る

縄文杉トレッキングの朝は早い。 朝四時半にバス停に行き、縄文杉に向かうバスに乗る。 言うまでもなく売店などはないので、ホテルの人に昼用の弁当を用意してもらう。 トレッキングシューズもレンタルした。 あまりにも早朝なので、ホテルのロビーのところに名札付きで弁当が置いてあるだけで、人はいない。 バス停には僕以外の旅行客がいなくて、不安になった。

バスに乗ってしまうと、もうほぼ満席だった。 どうも僕のホテルの近くまで来る前のバス停で、皆乗ってしまうらしい。 一時間ほどバスに揺られて、スタート地点にたどりつく。 最初はトロッコ道をひたすらに歩く。

歩いているうちに日がのぼってきて、あたりが白々と見えるようになる。 それまではヘッドライトを持ってこなかったので、スマホのライトで代用していた。

縄文杉トレッキングはイメージよりもずっと山登りだし、体力を使う。 特にトロッコ道が終わった後は、一瞬どこに進めばいいかわからなかった。 探すと、山の中の枝に目印がついていて、そこを分け入っていくのが正しいルートらしかった。 枝にちょっと色のついた紐が結んでる程度で順路が示されていて、「マジかよ」と思った。 そこからはもうただの山登りだった。

結局縄文杉のところに着いた頃には昼前になっていた。 だいたい片道四〜五時間ほどかかった。

人生観が変わったか、と言われると微妙だった。 その後山小屋に入って、弁当を食べた。 おにぎりとウィンナー、卵焼き、漬物くらいも質素なものだったが、山の上で食べるとめちゃくちゃ美味しく感じた。 世の中はグルメ全盛だが、結局のところ本当に美味しいものはこういう形でしか食べられないのだと思った。

「こんな貧乏商売やってるけど」

ホテルの近くの酒屋で、六本セットのビールを買った。 部屋の冷蔵庫に入れて冷やして飲む。 そのとき、酒屋のおばさんと少し話した。 「屋久島はいいところですね。ホテル行く途中で会った小学生に挨拶されて、びっくりして挨拶返せなかったんですよ」 「ははは。都会は変な人多いから、挨拶もしないだろうけど、この辺はそんな人もいないからねえ。お兄さんは東京の人?」 「はい。東京の会社で働いています。縄文杉見たくて来ました。そこのホテル泊まってるんですよ」 「あら、高級ホテルじゃない。私もこんな貧乏商売やってるけど、これでも結構食べていくのには困らないのよ」 僕が彼女になんと返答したかは覚えていない。 貧乏商売、という言葉は予想外だった。 なんでそんな反応に困る自虐をするんだろうか?

レンタカー

縄文杉トレッキングは天候によっては中止せざるを得ない。 僕は幸運なことに、ホテル到着翌日にトレッキングを入れて、予定通り実行できた。 一日くらいは延期できるようなスケジュールにしていたので、完全に暇になってしまった。

沖縄の島を車で一周したとき、楽しかったことを思い出した。 オリックスレンタカーに電話してみると、安房の営業所まで一台回すので、来てくれれば貸せますよ、と言われる。 結構歩く場所だったが、時間はあったので、歩いた。

安房から、反時計回りに島を周った。 屋久島の北西には未開の地があって、道路の脇には猿や鹿がうろうろしているところがあった。 ただ道路が少し狭くて、すれ違った女子大生(と思われる)二人組の車が全速力で突っ込んできたときは死んだと思ったが、なんとかハンドルを切ってかわせた。

鹿児島にフェリーで渡って、そこでまた一泊したときも、全然やることがなかった。 鹿児島にはタイムズのカーシェアがあったので、レンタカーより楽だった。 とにかく楽しかった。 車が振動するたびに、ヘルニアの症状が出て、痛みが走ったが、ギリギリ耐えられた。

帰りの飛行機はLCC(たしかジェットスター)を使ったので、その狭くて固いシートで僕の腰は限界を迎えたのだった。

奄美大島(2018)

旅行に行って何もしない、ということは案外難しい。 「何もしない」をする、というコンセプトを知ったのは、Amazonプライムのリゾートばっか撮っている三好和義という写真家のドキュメンタリーだった。

RAKUEN 三好和義と巡る楽園の旅

根が怠惰なので、このコンセプトを知って、「これやりたい!」「俺の求めている旅行はこれだ!」と思った。 場所はどこでもよかったが、南の島でなければならなかった。 強い理由があったわけではないが、奄美大島を選んだ。 奄美大島は、Vanilla Air(当時)の直行便があって、セールをやっていて、チケットが安かったのだったと思う。

力強い緑

沖縄本島、屋久島を経てから行ったので、どうしても奄美大島はそことの比較になってしまう。 そのことに対して、奄美大島に対して申し訳ないと思ってしまう。 何か似ているものを見つけて、それとの差異で語るのは失礼だと思う。 けれど、僕はもう経験していない状態には戻れない。 比較で書かざるを得ない。

奄美大島は、屋久島に比べて、非常に大きいという印象を持った。 大島、と名前がついているくらいなので、大きい島なのだけれど、行ってみて実感した。 そして緑が鮮やかで、力強い、と感じた。

屋久島の緑は、苔生した岩のせいなのか、歴史の重厚さを感じさせた。 雪が所々残っていたせいもあるかもしれない。 奄美大島は、青々とした緑が至るところに溢れていて、なんだか生命力を感じさせるものだった。

「何もしない」をする

「何もしない」をする、というコンセプトで重要なことは、滞在拠点を一ヶ所にして、なるべくいいホテルをとることだと思う。 ホテルには「Don't Disturb」の札があるので、昼過ぎまで寝ていたければ、それをドアノブにかけておくとよい。 経験的に、「本を読む」みたいな目標も立てない方がいいと思う。 寝る、起きる、散歩する、風呂に入る、食事する、酒を飲む、くらいしかできないと思った方がいい。 そこで退屈だな、と感じたときに、暇つぶしで本に手をとったなら、そのときはじめて読書をしていいときが来たのだと判断すべきだ。

この頃からサウナにハマりつつあったので、ホテルもサウナがついたところを選んだ。 前年まで僕を悩ませていたヘルニアはかなり回復しつつあった。 (ベッドのマットレスを改善したのが効いた?)

空港でレンタカーを借りた。 公共交通機関を極力使わないで、人との接触を減らすのも、神経を休めるにはいいことだった。 尤も奄美大島には公共交通機関なんてバスとタクシーくらいしかないが…… レンタカーが一大産業のようで、空港近くの便利な場所に結構な台数があった。 時期的にはシーズンオフだったので、行く先々で空いていた。

ホテルの位置が思ったよりも繁華街から遠くて、ちょっと失敗したなと思った。 一番近い繁華街が名瀬という街で、Google Mapを見ると歩けそうなのだが、実際に歩いてみると30分以上かかった。 レンタカーがあるから、と思っていたが、車だと酒が飲めない、という弱点がある。 結局、名瀬には一晩だけしか行かなかった。

名瀬の飲み屋のカウンターで、花田のミキの社長と話す。 「ミキ」というのは、奄美大島特産の発酵飲料で、飲むヨーグルトみたいな飲みものだ。 社長だけあって羽振りがよくて、その夜はその人についていって一晩飲んで、タクシーで送ってもらってラッキーだった。

回復の途上

最悪の時期からは少しずつ脱していた。 けれど何をしたらこれ以上よくなるのかはわからなかった。 とにかく目の前にある仕事を100%頑張ってみたら何か見えるかもしれない、と一年間全力でやった。 会社から評価はされたが、自分の中では何か芯を食った手応えは得られなかった。 何か大切なものをごまかしているような、そんな気がした。

周りの同期は次々と結婚していて、早ければ子供もつくっていた。 金持ちの嫁を見つけた奴は専業主婦家庭、そうでない夫婦は大卒共働き家庭と、それぞれ忙しいなりに経済的には恵まれた生活をしていた。 僕も結婚すれば幸せになれるんだろうか? 本当にそう思うなら、婚活でもなんでもすればいい。

何かが足りなかったけれど、それが何なのかよくわからなかった。 年末年始や夏休みの、長い休みで頭がクリアになると、足りないものがわかりそうな気がしたけれど、結局はっきりとはわからなかった。 わかったことは、沖縄の美しい海を友達と潜っても、縄文杉を間近で見ても、自分の中にある空虚感は消えないことだった。

絶景を巡る

結局何をどうしたらいいのかはわからなかったが、車でひたすら島の端まで走った。 ガイドブックは一応買ったが、ほとんど読まずに、写真だけ見て気になる場所へ行くことにした。

何をしたい、という願望が何一つ思いつかなかったけど、美しい景色を見るのは好きだった。 レンタカーを返すときに見たら、4泊5日の滞在で、642キロ走ったらしかった。

石垣島・竹富島・西表島(2019)

結局2019年上旬に転職して、僕には一ヶ月ほどの有給休暇の消化期間ができた。 半分を旅行にあてて、半分を勉強にあてよう、というざっくりした計画を立てた。 人生の夏休みみたいなもんだった。 五月の終わり頃の十泊十一日という旅程だった。

沖縄に所属すること

とにかく何もしたくなかった。 前職を辞める前は、とにかく仕事にフルコミットしていたので、 休日でも社用携帯が鳴ったらガンガン調査して、障害対応していた。 そこまで真剣に仕事に向き合ったのは、いつしか会社で評価されたいというよりも、 自分が生きている意味を見出したいとか、生きている実感が欲しいとか、 自分で自分に対して「俺ってすごいじゃん」という気持ちを持ちたいとか、そういう高次の動機に変わっていった。 正直多少手を抜いても昇格は規定事項だったし、頑張ったところで給料が上がるわけでもなかった。 結局は自己評価だった。

海外リゾートも行きたかったが、一人で行くようなところではあるまいと思った。 日本語が通じて、車が運転できるところがよかった。 なんとなく宮古島か石垣島かな、というのがあって、 宮古島はお笑い芸人がよく行くイメージで、印象が悪かったので、石垣島にした。

沖縄本土は、那覇周辺なんかはそれなりに都会だ。 「ライカム」と呼ばれているイオンモールにいけば、大抵のものは手に入る。 屋久島、奄美大島は地理的にはもうほとんど沖縄みたいなもんだけど、鹿児島県に所属していた。 歴史的にも、奄美大島は薩摩藩に侵略されて以来、一貫して鹿児島県に属している。 鹿児島か沖縄か、という境界は、現地に行ってみると思いのほかあるような気がする。 西表島のレンタカーの人でも、「まあここは沖縄ですから」と言っていた。 彼らのアイデンティティーが、鹿児島に属するのか、沖縄に属するのかは、何か大きな違いになっているようにも見えた。

離島巡り

例によって行きと帰りの飛行機だけとって、最初の数日を過ごすホテルを決めて、後のアクティビティは何も入れなかった。 さすがに十泊十一日を一つのホテルにするのは長すぎたので、明日どこに泊まるかはその日考えることにした。 屋久島や奄美大島も、近くに離島があって、地図を見ているとどうしてもそういう場所に行きたくなった。 けれど四泊五日程度では、離島までは行けなかった。 いや頑張れば行けるだろうけど、頑張らないと行けなかった。

最初にとったホテルにはサウナがついていた。 いいホテルで朝食付きなのにえらく安かったので、即決したが、後々見るとなぜそんなに安かったのかわからない。 ちょっと高級感がありすぎる、隙のないホテルで、その中にいると自分が石垣島にいるというより、高級ホテルの中にいる、という気持ちになった。 生憎なことに、フェリー乗り場からは遠かった。 あとで知ったが、島内でサウナがついた大型温泉施設があるのはこのホテルだけらしい。 そもそも温泉施設なんて、南国では不要らしい。

真っ白な砂の道

Google Mapで見ると、竹富島はきれいで小さな円形をしていた。 フェリー乗り場までホテルの送迎サービスがあったが、時間を持て余していたので、歩くことにした。 フェリー乗り場から少し進むと、寂れた観光センターがあった。 観光センターには見るべきものはほとんどない。 更に進むと、街の中心部に着く。 そこで僕は少し衝撃を受けた。

舗装された道が、いつの間にかなくなって、白い砂の道となっている。 地図上では島の中心になっている部分、円の中心に行くと、文明から隔離されたみたいな街並みが広がっていた。 レンタカーで巡ろう、なんて思っていたが、そんなビジネスはこの島では成立していなかった。 (正確に言えば、軽自動車が借りられるレンタカー屋は存在するが、街の中心部に乗り入れることはできない) 家々は白い壁に、鮮やかな赤い瓦が重ねられた屋根。屋根の上には守り神のシーサーが目を見開いている。 何千年前から生活が変わっていないんじゃないか、と思わせるような風景だった。

竹富島は珊瑚礁が堆積してできた島だ。 白い砂は、正確には砂と珊瑚の死骸の混合物だった。 のどかという言葉で形容するのも憚られるような、牧歌的な世界がそこにはあった。 僕は、東京の大学で経済学を学んで、東京の会社で働いていた。 僕が学んできたものとは真逆の、経済発展を頑なに拒むかのような島。 島には人口が300人ほどしかいなくて、唯一の小売店は17時頃には閉まる。

観光施設というのもほとんどないが、白砂と石垣の町並みをゆっくり散歩して、海や星を見て過ごすのが竹富島の楽しみ方らしい。 完全に印象がなかったが、先の紹介した三好和義のドキュメンタリーでも、竹富島(というか八重山諸島)は紹介されていた。 夜中ずっと曇っていて、星は見えなかったが、滞在最終日には晴れて、満天の星空を見ることができた。 (星空はスマホだと写真がとれないことに気づいたのもこのときだった)

ジャングルの中のホテル

2019年はイリオモテヤマネコの交通事故が四件報告されたらしい。

[https://iwcc.jp/2019/12/12/今年4件目【イリオモテヤマネコの交通事故発生/:title]

竹富島は文明拒否の島だったが、西表島はもう少し文明的だったし、何より大きな島だった。 ただしその島の大半が人が住んでいない密林だった。 フェリー乗り場が島の東南にあって、そこから公道が島の沿岸をなぞるように、北側をぐるっと走っていて、基本的にはその道の周辺が人間の生活範囲だった。 ククルレンタカーという沖縄でしか聞いたことのないレンタカー会社で、二世代落ちくらいのデミオを借りた。 泊まったホテルは、文字通りジャングルの中にあった。

サウナと温泉がある、という情報を何かで見たが、それはもう潰れてしまったらしく、部屋のユニットバスで済ませた。

レンタカーで島の公道を何往復もして、それに飽きると部屋に戻って、 野球を見たり、Youtubeのゲーム実況を見たりして過ごした。 特に牛沢というゲーム実況者の「龍が如く極」を全部見た。

730記念碑

特に何をするわけでもない離島巡りを終えると、僕はフェリー乗り場が見下ろせるホテルに宿をとって、本土に戻る日までそこで過ごした。 こちらの方が石垣島のホテルっぽい感じがあった。

今思うと、別にもうひとつくらい離島に行ってもよかったのだろうが、そもそも石垣島をあまり見れていなかったので、 全部の離島をコンプリートするよりも、石垣島をじっくり見ようと思ったらしい。

どうやら石垣島という土地は、730記念碑と市役所通りが観光の中心らしく、賑わっていた。 730記念碑というのは、1978年7月30日に、アメリカ統治の名残で右側通行だった道を、 日本の道路交通法に準拠して、左側通行に変更した記念碑らしい。 ホテルの近くにあるレンタカー屋に電話したら、空きがあって三日くらい借りられると言われたので、それを足にした。赤のNOTE。 店に行くと、客用の椅子に小型犬が座っていた。 ちょうど店の人がパイナップルを食べていて、僕にも切り分けてくれた。 運転はいつの間にかすっかり慣れていたし、ヘルニアもよくなっていた。

滞在中あまりに暇だったので、現地のバッティングセンターに行った。 アーム式で、ピッチャーの映像なんて当然ついていない、四打席ほどしかない小さなところで、ゴルフの打ちっぱなしも併設していた。 どちらかというと野球よりゴルフの方がよくやっていたが、プロ野球ばっかり見ていたので、自分も打ちたくなってしまっていた。 軽く打って終わるつもりだったが、四打席打ったらすっかり汗だくになったので、そのまま車でホテルに帰って、シャワーを浴びて、昼寝をした。 するとホテルのベッドが固かったせいか、ヘルニアが再発して、久しぶりにすごい痛みが走った。 ただ痛かったのも一晩程度で、安静にしていたら症状は回復していった。

さしみや

石垣島地元のバッティングセンターの近くに、さしみやというお店があった。 駄菓子屋とか惣菜屋とかと同じジャンルで、沖縄にはさしみやという店が存在する、というのはウシジマくんで得た知識で、気になってはいた。 最初店の前を通ったとき、何だか入りづらくて、スルーしてしまった。 ホテルに戻って、どうしても行ってみたくて、翌日意を決して行った。

入った瞬間に、プレス工場みたいな、規則的なガンッ……ガンッ……という音が響いていた。 作業着姿の女性が、ギロチンみたいな巨大な裁断機で、魚の頭を飛ばしている音だった。 店の床には魚が流す血が流れていた。 大きなゴミ箱には無数の魚の骨が山のように捨てられていた。 不思議とそこまで悪臭はしなくて、魚の血生臭いにおいが少しだけした。 まぐろと鰹の二種類がガラスケースに並べられていて、量的にはどちらか一方を買えば十分な量だった。 僕が悩んでいると、「半々にしましょうか」と店の人が提案してくれた。 300円だった。

近くにあるスーパーで、「ご自由にお取りください」になっている醤油を万引きみたいにとって、一緒にオリオンビールも買った。 石垣島滞在中は水より飲んだかもしれない。 ホテルの部屋で刺身を食べたが、これがまた新鮮で美味しかった。

沖縄の地元紙にくるまれていた。 食べ終わったあとで、改めて300円という値段の意味を考えた。

都会と田舎を比較したときに、都会を選ぶ

僕は沖縄に観光客として来ている。 ホテルもダイビング教室も「客」だった。 もちろん沖縄の人は、のんびりしていて、いい人が多いのは事実かもしれない。 けれど僕が見ている彼らはあくまで仕事中だった。 普段食べている刺身は、たった300円で食べられる。

経済学をやった人間ならば、物価と賃金の関係はすぐにピンと来る。 例外的にインフレと不況が同時に発生することはある(スタグフレーション)が、原則として物価と賃金は比例する。 庶民の食べものの安さは、即ち庶民の給料が安いという裏がある。 沖縄には東京のようなビル街がないし、電車もない。 それは僕のような観光客にはすばらしかったが、現地で生活していく人々はどうだろう? 彼らはどこで働くんだ? ホテル? レストラン? 三線を引く? 屋久島の酒屋で言われた「貧乏商売」という言葉がふいに思い浮かぶ。

ずっと遊び続けられる人間なんていない。 いや正確には存在する。 地主とか石油王とか、あるいは芸能人とかホームレスとか。 (ホームレスは遊んでると言えるのかわからないけども……) でも99%以上の人間はそうではないし、僕もそうではない。 竹富島みたいな暮らしには、憧れがあったけれど、僕はやはり経済発展の中で生きたい。

消極的な形でずっと選択し続けてきたらから、ずっと自分で選んだという感覚が持てなかった。 高校も大学も会社も第一志望ではなかった。 会社の同期の一人に会社入った理由を聞くと「ここしか内定が出なかったから……」と言われて、嫌な感じを覚えたことがあった。 別に相手は、ネガティブな性格ではあったが、嫌いではなかった。 何が嫌だったのかというと、たぶん僕も根本的には同じ理由で入社していたところに原因があるんだと思う。

石垣島滞在の最終日、僕はホテルでブログ記事を書いた。

沖縄に住みたいという僕をとらえて離さなかった願望

働きはじめてからずっと沖縄に住みたいと思っていた。人にも言っていた。 それは遠い願望だった。 「本当は沖縄に住みたいけど、仕方なくこの汚い街で働いてやってるよ」という姿勢。 それは多分、今思うと、労働とか都会生活とかからの現実逃避だった。 田舎は田舎で、また都会とは別の闇があって、僕はそれを見ようとしていなかった。 そんなのわかりきったことだったのかもしれなくて、僕は心のどこかでわかっていたのかもしれない。 沖縄が日本の都道府県で一番所得が低いとか、バイトの時給が信じられない安いとか、そういうネガティブな情報は知っていたが、 それすらも南国のおおらかさの中に溶かして、解釈しようとしていた。

その沖縄の現実と、自分の中の理想郷としての沖縄の乖離は、 皮肉なことに何度も南国を訪れるほどに肌感覚で察しられるようになっていった。 きっと社会人二年目のときには、本当はもう気づいたのを、無視していたのかもしれない。 人は自分に都合の悪い情報は無視するようにできている。

僕の中でそのごまかしが通じなくなったのが、たぶん竹富島のリゾート建設反対の看板を見たときだった。 その看板を見たとき、僕は楽しい夢から覚めたような気持ちになった。

僕はゴルフ場とかリゾートホテルとかは、はっきり言って好きだったし、今も好きだ。 けれどもし僕が離島に生まれて、地元にそんなものが建ったら、どういう気持ちになるだろうか? 「これも経済発展のためだから、地元にとってはいいことなんだよ」なんて思えるだろうか? たぶん僕は思えないし、現地の人間にそう思えと強要することもできない。 今でもなお米軍基地は沖縄本土に残っているが、それだってそうだ。 NIMBY(Not In My Back Yard)という用語があるが、まさに自分の身近にはあって欲しくない。

沖縄というか、南国が持っている、楽天的で、明るくて、それでいて怠惰な性質というのは、 歴史的には悲観的で、暗くて、競争主義で、勤勉な大国から侵略される対象でもあった。 南国の人々がどんなに楽天的でも、歴史をたどると悲しい被害者の歴史が大抵存在する。 沖縄には「ナイチャー」と「ウチナーンチュ」という言葉があるが、僕は明確に内地の人間(ナイチャー)だった。 本当の意味で、南国の人々と混ざり合うことはできない存在だった。 きっと僕が移住したら、彼らの向上心のなさや生温い生き方を批判するようになったかもしれない。 実際上京してきた沖縄出身者から、そういう話を聞いたこともある。

帰り

長い南国の夢から覚めたのを感じながら、Vanilla Airに乗って、成田空港へ帰った。 横に六席あったシートは、僕以外すべて空席だった。 (この旅行の前後で、Peachに買収されることを知った) 成田から最寄り駅までは、京成スカイライナーに乗って上野まで行き、そこから乗り換えた。 最寄り駅を降りると、くすんだ色をした雑居ビルと、たくさんの人が歩いていた。 情報量があまりに多すぎて、歩くだけで神経を使う。 はじめて僕は嫌悪感のフィルターをなしにして、きちんと都会というものを見つめた。

被害者ぶるのはもうやめよう、と思った。 たとえ都会で会社員として働くことが、ハムスターの回し車のような作業だったとしても、僕はそれを選んだ。 他に存在した、いくつもの選択肢を捨てた。 もっといい選択肢があっただろうし、もっと悪い選択肢もあったろう。 世の中にあるすべての選択肢を把握して、その中から結果的に一番いいものを選ぶことができたら人生は楽だろうが、 残念ながら情報は不十分だし、自分の判断力はアテにならないし、人のアドバイスも合っていたり間違っていたりする。

生きるということは、不確実性の渦の中に飛び込んで揉まれることに他ならない。 その意味合いにおいて、僕は間違いなく生きていると感じることができた。 かつては南の国の生命力を補給しているときにしか感じられなかった、生きている感じが、自分の中に消えずにあった。

色々な出来事が僕から自信を奪っていったけれど、南の島での贅沢な時間の使い方の中で、少しずつ回復させることができた。 深いところにある自信は、成功者への嫉妬と他人のみじめな失敗を嘲笑う習慣から人間を解放してくれる。

まとめ

結局すべては納まるべきところに納まった。

何がどう作用したのかはわからない。 しかし間違いなく2016年頃のメンタルの落ち込みは、自分の人生の最悪期だった。 (就職活動で内定もらえなかった時期よりキツかった。  それがなぜ苦しかったのかも上手く言葉で説明できない) 三年という長い時間をかけて、ゆっくりと、最悪の時期から回復していった。 回復したプロセスはまったく論理的なものではなくて、因果関係があるのかないのかわからないようなことばかりだ。 したがってこの記事も、客観的事実と感じたことをごちゃごちゃにして書くことになった。

読者がこれを読んで何を感じるのかが想像もできない。 個人的な経験を、より深いところで共有できたのであれば、幸いだ。 (了)