ワークスタイルを変えた話
ワークスタイルを変えた話です。
なぜ
転職を機に、自分の働き方を考えるようになった。 今の会社が自分に求めている役割を果たす、というのは大前提としてあるが、 自由度が高い会社に入ったので、自律的に動くことが可能になった。 自由になったのは僕にとっては非常にいいことだった。 ただ万人にとってそうではない。
自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。<BR> --- 芥川龍之介「侏儒の言葉」
管理主義は僕としては最悪だったが、思考停止してもある程度正しい行動を強要される、というメリットもある。 自由な環境では、常に自分にとって何が正しいのかを考えなければならない。 というわけで、ワークスタイルを自分にとって都合のいいものになるように再構築していった。
人間にはダラケたい欲とすごくなりたい欲がある
上手い表現が思いつかないけど、人間にはダラケたい欲とすごくなりたい欲がある。 マズローの欲求段階でいう、生理的欲求と自己実現欲求みたいなことなんだけども。 堕落に向かう欲望と、改善に向かう欲望が一人の人間の中に両立している。 仮称で堕落欲求と改善欲求と名付けようか。
それはおそらくけして不自然なことではなくて、「勤勉な人間」とか「怠惰な人間」とかは存在せず、 どんな勤勉な人間にもダラダラしている瞬間はあるし、怠惰な人間でも勤勉な瞬間はある。 2016〜2018年頃、僕は怠惰な欲求は満たせていたが、勤勉な方の欲求は満たせていなかったのだと思う。 この両極の波を上手く使うことで、低次元の欲求も高次元の欲求も満たせて、充実した人生を送ることができるのではないか? と考えた。
ワークアズライフ
休日を有効に使えない、という悩みがあった。 色んな方法を試してみたが、どうも上手くいかなかった。 仕事は会社行くと、どんだけやる気なくても、何かしらのアウトプットは出す。 ただ家にいると、昼近くまで寝てしまい、特に何をするでもなく時間を使って、気づいたらまた月曜日……という展開になる。
ワークライフバランスという意味では、それでもいい。 「金を稼ぐための手段」として自分の時間を1日8時間切り売りして、それが週のうちに5日ある、 たまに残業や休日出勤があるとその時間分プラス。 労働ってそういうもんやろがい、という価値観も全然構わない。 僕はただその価値観が馴染まなくて、ここ数年模索していた。
結局、今年からワークアズライフという考え方で働いている。 職場でプライベートなことも全然すませるし、逆に家で仕事の連絡もバンバン受ける。 (ロール的に今だとバンバン連絡も来ないが……) というか冷静に考えたら、前職のときも家にいるときにガンガン電話来て障害対応していたので、 当時から別にワークライフバランスという感じでもなかったかもしれない。
「家に帰ったらやろう」とか「休日に試してみよう」とかを、極力減らす。 思いついたらすぐにやる。 会社にいようが家にいようがすぐにやる。 モチベーションが維持できる、アイディアの鮮度が保てるなどのメリットがあるが、 1番のメリットは「自分の人生における優先度が高いことを確実に実行できる」ことだ。
最も理想的なタスクリストの消化方法は、優先度が高いタスクを上から潰していくやり方だ。 ワークアズライフの体制を整えて、タスクを思いついたらすぐ実行、とすることで、優先度順にタスクが消化できる。 問題はその優先度をどうつけるか? だ。
快楽説で動く
優先度には様々な尺度が存在する。
- 自己の生理的快楽の充足度
- 世界への貢献度
- 自己の幸福度
- 他人の幸福度
- お金
・ ・ ・ 現実世界の複雑性を無視して、何か単一の尺度で行動してしまう人間もいる。 たとえば何にも優先して金を稼ぐことが大事、と考えて行動する、など。 しかしそういう人間でも冷静に考えればわかるが、「自分の親を殺したら10億円やるよ」と言われて、親を殺せるだろうか? (親でなければ、誰か大切な人間を思い浮かべて欲しい) そこで純粋に金のためになんでもできるのであれば、単一の尺度で人生設計しても良いだろう。 けれどそこまで覚悟できていなければ、複数の価値基軸が自分の中に存在することを認めたほうが良い。
結局僕がどうしているのかというと、快楽説で動くようにした。 今やりたいことは、きっと自分にとって正しい、と思うようにした。 これは判断基準が単純化できてよいが、危険でもある。 ひたすら酒を飲んでしまうとか、どんなに太ってもひたすら食べてしまうとか。 ただそこは自分が自己管理できている、という前提。 10代の子供がこの方針で行動すると、よくないかもしれない。 前述の堕落欲求と改善欲求を意識する。 堕落欲求は暴飲暴食したい、と望むが、改善欲求は適正カロリーにおさえて体型をスリムにしたい、と望む。 その均衡を上手いこととれるのが前提。
あと、最近だとバッセンにひたすら行っている。 これも突き詰めるとムダな行動だが、どうしても行きたいので行く。
締切駆動開発
快楽説で好き勝手行動すると、やるべきタスクを放置してしまうのではないか? その抑止力になるのが、締切の存在だ。 タスクのデッドラインの存在は、強制力になる。 特に本当のデッドラインがあれば、快楽説に従って行動したとしても、意識せざるを得ない。 「試験が◯◯日にある」とか、「リリース日が◯◯日と発表している」とか。 デッドラインと改善欲求によって、快楽説に従っても、やるべきタスクが消化できる体制をつくることが可能となる。
自分にとって本当にやるべきことをやる
前述の通り、僕は最も理想的なタスクリストの消化方法は、優先度が高いタスクを上から潰していくやり方だと考えている。 「自分にとって本当にやるべきことをやる」というのは当たり前のことを言っているように見えるが、実は難しい。 僕も10代、20代を通して、ほとんどできていなかったと思う。
なぜそれができないか?
ではなぜできないのか。
人間関係(親、配偶者、子供、友人など)
周囲の人間に縛られている、というのは1番多いのではないかと思う。
金
次に多いのが金だろう。
放任主義の金持ちの親の子供が、「夢を追う」ような職業になりがちなのは、 この人間関係・金の2つの問題が生まれたときからクリアされているからだと僕は考えている。 大抵の人間は、親はそれなりに子供に干渉してくる(それが親の責任でもあるので、一概に悪いとも言えない)し、 ありあまる金があるわけではないので、「本当はこういう風に生きたいなあ……」と思いながら、全然別の生き方をして、そのまま人生を終える。
時間
あとは時間がない、というのもよく聞く。冷静に考えると、本当にやるべきことの前で、「時間がない」なんていうことはありえない。 目の前で家が燃えているのを見ながら、とりあえずすぐに電車に乗らないと会社に遅刻してしまうから駅に向かう奴がいるだろうか? やるべきことは今すぐ消防車を呼んで、消火活動をはじめることだろう。 それに気づいてから、僕は「時間がない」と思うことをやめた。
モチベーション
あとはモチベが続かない、というのも多い原因だろう。 個人的にはモチベが保てないことは所詮その程度のものなので、辞めてしまっていいと思う。 辞めた結果、それでもまだ諦められないなら、モチベーションも湧いてくるだろう。
(ちなみに僕が今「本当にやるべきこと」と定めているのは、ITと小説の2本柱)
20%ルール
Googleの有名な制度で、会社いる間の20%は好きなことしていい、というのがある。 僕は前職からこれを勝手にやっていた。 人によってはサボりと見做すかもしれないけども、 メインでやってる技術とは別の技術記事読んだり、 直接は業務に関係しない実験したり、 少なくとも自分の技術力には寄与するようなことをやっていた。 これはいい習慣だったかなと思っている。 前の会社で20%だったことが、今の会社の80%になっている感じがある。
体中にエネルギーが充満した状態で働く
話題は変わるが、高いパフォーマンスを出す上で、コンディションは重要だ。
前職は疲れた状態で働いていた
前職も別にブラック企業でもなかったし、自分ではそれなりにイキイキ働いていたつもりだったが、振り返ると結構疲れ果てていた。 会社で働くというのはそういうもんだと思っていたフシもある。 通勤電車で揉まれて、仕事して、家に着いたときはエネルギーを使い果たして死んだように眠って……
転職したときに、有給消化期間で1ヶ月半ほど仕事していない時期があった。 そのとき経験したのは、何日も休んだ後で、体中にエネルギーが充満してきた、その活力だった。 かつて学生の頃そうであったような、新しいものへの好奇心だとか想像力、思考力が回復してきた。 もちろん前職でも長期休暇はあったから、そのたびにそういうリフレッシュした気持ちにはなった。 けれどそのリフレッシュは再び仕事に向かうためのもので、言わば時限付きの状態だった。
有給消化期間で、この状態こそ本来自分があるべき状態だな、と思った。
では疲れないためにはどうするか
仕事をしている限り、疲れることは避けられない。 しかし工夫次第で、会社行きながらでも、エネルギー満タン状態で活動できるようになった。
寝る
バカみたいなこと書くが、眠くなったら寝るようにしている。 飲み会→翌日仕事が絡むと、これができないので悩んでいる。 午前半休しかソリューションがないんだろうが、僕にも社畜としてのプライドがある……
電車通勤しない
前職でも最後の1年は職住近接で過ごしていたが、これが自分にとっては大きい。 僕にとって、会社で働くのは大したストレスでもなかったが、電車に乗るのは異常なストレスを受ける。
休憩とる
当初はポモドーロテクニックを使って、25分集中→5分休憩のインターバルでやっていたが、 次第にポモドーロのインターバルとタスクの消化タイミングが全然合わなくて、 しかも体調良ければ勝手に集中できることに気づいたので、次第にポモドーロをやらなくなった。 ただ細かく休憩をとる、というのは意識していて、基本的には1時間以上座り続けないようにしている。 トイレ行くとか、ちょっと立ち上がるとか、そのぐらいの息抜きをする。
特に重要なのが昼休憩で、前職は自席で10分くらいで昼飯食べて、仕事以外のことなんかする時間にしていた。 (なんか業務外の勉強とか、単なるネットサーフィンとか) それでもなんやかんやで電話かかってきて、強制的に対応になることも多かった。
今はたっぷり1時間を使うことにしている。エミネムの最近のワークスタイルに影響を受けている。
ビートを聞いたりしながら、ヴァイブスがいい感じになったと思ったら13時だ。<BR>彼は「昼飯食べにいくわ。Akonは食べないの?」と聞いてきた。<BR>俺は腹が減ってなかったから、そのままスタジオでサビをレコーディングした。<BR>ぴったり1時間の休憩を取り、彼はスタジオに戻ってきた。
受容的になる、開かれた感性、たくさん消費してたくさん忘れる
僕はエネルギー満タン状態だと、「受容的になる、開かれた感性、たくさん消費してたくさん忘れる」という特徴があるらしい。 逆にこの状態と真逆の状態になれば、それは疲弊している可能性が高く、1つのバロメーターになるかもしれない。 特に創造的な仕事をする上では、これは非常に重要だ。 ルーティンワーク的な作業であれば、別にそんなに重要じゃないかもしれない。
月次で振り返る
アジャイル開発の概念で、イテレーション開発というのがある。 小さく開発して、どんどん改善のプロセスを回すことで、最終的に大きなソフトウェアにする、という考えだが、 僕はこの思想がかなり好きだ。 自分の人生設計にも、同じ思想を適用できる。 その際の鍵になるのが、振り返るプロセスだ。 振り返りはやりすぎると単に後ろ向きな反省の山になるので、適切に行うことが求められる。 全く振り返りがない行動は「やりっぱなし」で、常に振り返っている行動は「管理コスト払いすぎ」ということになる。
僕は基本的に月次で振り返りをいれている。 基本的に大雑把な人間なので、日次・週次で振り返ると細かすぎるな、と思ってしまう。
日々をログで残す
日々をログで残すのが重要だ。 これをもとに月次の振り返りを行う。 色んな方法はあると思うが、僕は日記と自分向け日報の両方を書いている。 (今の会社は特に日報の提出義務はない。 前の会社もなかったが、やめるちょい前にゆるく運用されていた。 日報制度自体は好きじゃない) これも上記の快楽説に則っていて、書きたいことがない日は最低限の箇条書きレベルで残すようにしている。 最悪書けなかったら、「この日は◯◯で書けなかった」と翌日書いている。 あとから振り返ったときに、「あ、この日は◯◯だったんだな」と思い出せれば十分用は果たす。
考えていることを残す
単なる事実の羅列と合わせて、その日何を考えて、何を感じたかということを書くようにしている。 こっちの方が多分大事。 行動に関しては、何らかの方法を伝えば追うことができるが、 その日考えていたことは本気で自分が忘れたら忘れてしまう。
年次でまとめる
毎年ブログで「今年を振り返る」「来年の目標」みたいな記事を書いているが、 これはかなり自分の中でグッドプラクティスになっている。 実現できた/できなかったというのはあるにせよ、「あ、この年はこんなことしたかったんだな俺……」というのが思い出せる。
月次で振り返りだしたのが今年からなので、今年はその月次の振り返りを年次でまとめるだけでよさそう。
吐き出す作業と整理する作業とは別々にするとよい
上記でもログや思いつきを吐き出す作業(日記・日報)と、整理する作業(振り返り・まとめ)は別れているが、別々にした方が良いと思った。 整理や分類という作業は大事だけども、創造性を殺す部分があるので、 分類できることを前提としない、思考を吐き出す作業はあった方がよい。
まとめ
以上、ワークスタイルを変えた話でした。 なんかところどころ自己啓発本読みすぎた人の文章みたいになってますが、それはそれで。 断定的な語尾で書いているけれど、人によって合う合わないがあると思うので、万人に薦めるものではありません。
(了)