きちんとつくられたものに感じる息苦しさを克服したい

きちんとつくられたものが息苦しい、と感じるようになったのはいつからでしょうか。

僕の場合、働きはじめてからです。

学生時代は知的な意味で体力があったな、と思います。

きちんとつくられたもの、とは

社会人になってから、内容が重たい本というのは読めなくなりました。僕以外にもそういう人は多いかと思います。もちろん働きながら、哲学書読んだり、学術書読んだりしてる人もいるにはいるんでしょうけど、超人の類だと思います。

フルの映画を見る、というのすらも結構辛くなってきて、ここ数年はYouTubeのゲーム実況動画が僕の中のエンタメとして不動の地位を占めるようになっていました。ゲーム実況がきちんとつくられていない、と主張するつもりはないですが、ただきちんと撮影された映像作品と比べると、YouTube動画はきちんとつくられた、とは言い難いでしょう。

Netflixオリジナルや、テレビの気合い入った番組なんかは、映像のクオリティも音楽もストーリーも全然違います。視聴者から見えるところではありませんが、その裏側では、潤沢な予算・優秀なスタッフ・長期の撮影時間・丁寧な編集作業があることは想像がつきます。

映像作品でなくとも、そういう「きちんとつくられたもの」というのはあります。本にせよ、音楽にせよ、ブログの記事でさえ、およそ作品と名のつくものはきちんとつくっているかどうかでクオリティが全然違うものになります。

正座して見なきゃいけない感覚が苦しい

きちんとつくられた作品を軽く消費することに抵抗を覚えます。正座して見なきゃいけない感覚にしてくるぐらいにつくりこまれている小説や映画は素晴らしいですが、仕事終わりの寝る前にちょっと消費できる重さではありません。

社会人になりたての頃は、その辺がよく理解できてなくて、自分が労働によってつまらない人間になってしまった感覚がありました。感受性がすり減ってしまったのではないか? とすら思っていました。けどその苦しさというのは、僕だけではなく、働きはじめた人々には多かれ少なかれある現象のようでした。

年をとって感性が鈍るとか、労働によって感性が鈍るとか、そういうことはないと思います。ただ忙しくなると、時間と余裕がなくなるというだけです。

TwitterやYouTubeというのも、楽しいは楽しいんですが、インスタント食品みたいなもので、長期的にはあまり感性にとってよくない気がしています。

問題を大きく解釈してみることもできる

きちんとつくられたものを消費できなくなる問題を、もっと誇大解釈してみることもできます。「加熱した資本主義の社会は、労働者である我々から、労働力を搾取するだけではなく、感性も奪っている。長時間労働や絶え間ない競争によって、心の余裕は奪われて、常に強いストレスに晒されている。その結果、上質な作品を楽しむことができなくなり、朝からストロングゼロを飲んで気絶するだけの荒廃した日々を送る」みたいな。

現実をどう解釈するかは人によるので、上記のような見方もある意味では正しいのでしょう。ただ僕自身はこの手の「資本主義に殺される」的な論を広める気はありません。

競争的な制度が生んだ需給ギャップ

競争、という言葉を使いましたが、競争は作品の生産者と消費者の間に皮肉な需給ギャップを産んでいるように思います。

映像作品がどんどん高度化しているのは、そうしないと過去の作品を超えられないからで、映像はどんどんキレイになって、俳優の演技力は高くなって、ストーリーはどんどん複雑になっていく傾向があります。供給サイドからすれば、そうやって最低限のラインに乗せないと、放送にこぎつけることもできません。

一方で視聴者はそこまで高度なものを望んでいない、という現実もあります。視聴者側も視聴者側で生きるための何らかの競争で摩耗した心を、余暇のあいた時間で癒やそうとしている側面があって、そこで難解なストーリーとか、高度な社会風刺とかを見せつけられると、うんざりしてしまいます。

そのギャップに上手いこと入りこんでいるのが、YouTubeの動画とか、Twitterで流れてくるマンガとか、最近だとモルカーとか、「軽くてちょうどいい」作品なのかなと僕は思っております。

この構図はなんか皮肉だなーと思います。供給サイドが切磋琢磨して、ハイクオリティなものつくっているのに、受ける側にそれを受け止める余裕がないのですから。

きちんとつくられたものを消費できないことの損失

マクロな話をすると、消費者が「ストロングゼロ」的な作品を求めることは、文化全体に対してよくないし、究極的には「悪貨は良貨を駆逐する」世界になってしまうのでよろしくない、という主張もできます。ただ世の中の動きというのは止められないので、もしそうなるのであれば素直に諦めましょう。

ミクロな話で、きちんとつくられたものを消費できないことの損失はなんでしょう?すこし高尚な話になりますが、名作を消費できないというのは、人生の損失です。これは価値観の問題なんで万人に言えることではないですが、僕はなるべくなら人生で多くの名作と呼ばれる作品を消費したいと思っていて、一つでも多い方がいいと思っています。その数が減るというのは、単純に損失だと感じます。

克服できるのか?

で、タイトルに戻りますが、何とかきちんとつくられたものに感じる息苦しさを克服したいなーということを思っています。2021年は、アウトプットの質の向上とともに、インプットの質の向上も意識していきたいです。

ここ数週間は少しずつリハビリできているとは思います。Netflixも契約しました。(これはYouTubeの無料公開でしたが)「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」も全部見て、名作だなーと思いました。

克服の鍵になるのは、時間と余裕でしょう。一番は時間。学生の頃はとにかく暇でしたから、作品なんて長くて重い方がいいとすら思っていました。司馬遼太郎の十巻の歴史小説も平気で読んでましたが、今だとちょっと構えちゃいますね。

週休二日で働いているので、時間が全くないということは絶対にないんですよね。何が足りないかと考えていったとき、余裕という言葉が浮かびました。時間がいくらあっても、余裕がないと重厚長大な作品は消費できません。「こんなもん何の役に立つんだ」という話でしょう。

あともうちょっと実践的なところだと、僕の場合飲酒習慣があって、夜はだいたい酒を飲むので、これもまた難解な作品の理解を阻む要因です。そもそもゲーム実況がエンタメとしてちょうどいいなとなったのも、酒飲みながら何も考えずに見るコンテンツとしてのちょうどよさでした。

労働者の限界と職業選択の自由

理想論を言えば、仕事の負担を減らして、酒飲むのを辞めるという話なんですが、なかなか現実的には厳しいものがあります。印税生活で気が向いたときに働いて、酒もほとんど飲まないみたいな生活なら、いくらでも昔みたいに、いや昔以上に名作を消費できるでしょう。しかし実際はそんな風にはならないので、時間にも余裕にも制限つきの生活は続きますし、酒も飲みます。

結局僕は貴族ではない、ということなのでしょう。労働者は労働者らしく、その限界の中で戦うしかない。

ただ僕の個人的な経験で言えば、転職を機にだいぶ時間と余裕はできました。現職がめちゃくちゃ楽かというと、楽な部分と大変な部分はあって、そんなことはないと思っていますが、管理されている感覚はなくなって、自由な働き方ができています。実労働時間も、ちゃんと計測してないですが、体感ではだいぶ減ったと思います。

Digる作業を怠らない

時間と余裕がなくなると、休日の時間をより充実させたくて、「はずしたくない」という気持ちができます。(わかります?)絶対に感動する音楽、絶対に感動する映画、絶対に感動する本を求めるようになります。

しかし作品には相性もありますし、そのときの自分の状況もあります。評価が低い作品なのに、めちゃくちゃ自分の琴線に触れるものもあれば、評価が高い作品なのに、全然というものもあるでしょう。また評価が高くて、鑑賞したら「確かにこれは評価高くなるわ納得」というものもあります。

僕が社会人になってからまず考えたのは、「効率的に名作に対してアンテナを張る」という作戦でした。最小限の探索活動で、最大限の情報を得る、みたいなことですね。けれどこれは上手くいきませんでした。

YouTubeもNetflixもランキング上位作品というのは軒並みイマイチでした。僕の売れ線嫌いもあるんでしょうけど、やっぱラインナップ見ると、純粋に微妙だと思うんですよね。作品自体の面白さと順位が比例していないように見えます。

まだ誰かが主観的に選んだランキングの方がアテになるかな、という感覚でした。今度はTwitterベースに、評判良かったものを消費していく戦略にしましたが、これはまあまあ良かったです。「映画専門アカウント!」「音楽大好き!」みたいなアカウントじゃなくて、普通に仲のいいフォロワーが薦めてるやつにアタリがあることが多い気がします。ただこれも限界があって、個人が自由にやっているTwitterアカウントなので、四六時中サブカルの話題しているわけではありません。なので、情報量が安定しません。

結局僕は自分でDigるのが一番大事、という境地に達しました。自分の感性は自分にしかわからないので、自分のために自分で探すしかないようです。ランキング全部見て「全部つまらなそう」と思うならそれでもよくて、ランキング外を探すとか、ブログを探してみるとか。それで「これ見てみようかな……」と思ったやつも、結構な確率でイマイチなやつで、途中でやめて、別のやつを見る。そういう探究プロセスを踏んで、はじめて自分がこれだ、と思うやつに出会えるんだと思います。将来リコメンドシステムがもっと発展すれば、このプロセスがなくても、自分の感性にバチッとくるものがリコメンドされるのかもしれません。ただこのDigるプロセス自体が、自分の感性をより先鋭化しているようにも感じていて、これをサボると、何見てもつまらないと感じてしまって、「最近の○○ってつまらないよね」って語るおっさんと化してしまうような気がします。

正座して見るのをやめる

作品へのリスペクトを失いたくない気持ちはあるんですが、業務時間外の僕がフルでコンディションいいときって悲しいことにそんなにないんですよね。コンディションを理由にして、ちゃんとした作品を消費するのを長らくしてこなかったんですが、このままだと死ぬまでこんな感じで終わってしまうという危機感もあります。

なので、多少疲れていようと、多少酒飲んでいようと、ガンガン重ための作品を消費していこうと思います。

これはまだ正しいのかどうかわかりません。

作品の制作サイドに対しては失礼な態度だとは思うんですが、全く見ないよりはマシかと思っています。

(了)